記憶や認識の曖昧さ | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

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録画ですから、いつ放送されたかは定かではありませんが・・・。
「モーガン・フリーマンが語る宇宙 S6」とうTVシリーズの何回目かで、面白い実験を見ました。

おおまかに説明しますと、正確な人数だったかどうかは自信がありませんが、5人の青年に短い映像を見せ、その記憶を確かめる実験です。

映像は帽子を被った少年が、数分間何かで遊んだりいろいろな動作をするのですが、見終わったあとで5人の青年に質問をします。

5人全員の前で、順番に「少年は帽子を被っていたか?」と皆に聞こえるように質問をします。

最後に応える一人の青年を除いて、あらかじめ他の4人の青年には、「帽子を被っていなかった」と応えてもらうことにしてあります。

最後に答えた青年は、この時、当然ながら、「少年は帽子を被っていた。」と答えるはずですが、先に応えた4人が被っていなかったと応えたこともあり、自分の認識が曖昧だったと自己判断したのでしょうか、少し躊躇はしましたが「被っていなかった」と応えます。

数週間後、最後に答えた青年に同じ質問をしたところ、やはり「被っていなかった」と応え、彼の本当に経験した認識は完全に真逆に塗り替えられたのです。

つまり、間違った認識が意図的に植え付けられたのです。 人の認識、記憶の曖昧さを見せつけられました。

ありもしない間違った情報で、人は、有りもしなかった作り話をいとも簡単に信じます。

共産国家や独裁国家はこうして、国民を罠にはめ、意図的に信じ込ませるのか、いやそれらの国だけではありません。
韓国のような自由国家でも、誰かが大きな声で主張すれば、有りもしなかった間違った歴史が、実際にあったことになるのです。
疑いもなく本気で信じるのです。

そういえば、私にも思い当たる出来事があるような気がします。
これを読んで頂いた読者も思い当たる出来事があるではないでしょうか?

記憶の曖昧さ、認識の曖昧さ、それに付随した、真実の曖昧さ・・・ですね・・・。