チベット問題で考えてみました | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

チベットポタラ宮
ダライ・ラマ14世お留守中のチベット・ラサにある朝日に輝くポタラ宮

 


先日のNHKTV番組、クローズアップ現代の「中国の若者たちの出家の現場に密着」のレポートにちなんで、「チベット問題に触れていなかったことに違和感を感じた。」という方がおいでになりましたので、これをきっかけに、私のブログでも触れたことのなかったチベット問題を自分なりに考えてみようと思います。

実は、重いお話なので、この件を深く知らない私の考えなど書くに値しないと思っておりましたし、安易に発言しないほうが良いと考えていました。
というのは、この問題の本質がどこにあるのかよく分からなかったからです。

ですので、今回、私の私見をまとめるにあたって、日本に居ながらにして知ることのできる情報だけに頼って書かねばならないことのいい加減さを気にしながら書くことを、お許し願いたいと思います。

宗教、この場合は仏教なのですが、宗教を取り入れ、利用しようとする権力はどの時代であれ、どの国、地域でも同じだったように思います。
ですので、共産主義というひとつの思想で括ろうとする中国で、その思想を徹底するために宗教弾圧や迫害を繰り返してきたと思うのですが、何がどうなったのかは分かりませんが、共産主義国家が経済を重要視するようになった現在では、人民の欲望をコントロールし、「統率する手立てとして宗教を許容するしかない。」に至ったのでしょう。
私はこのことに、特別に違和感は感じておりません。

宗教とは、そもそもそういうもので、政治とはそういうものだと思っております。

共産主義であれ、経済至上の自由主義であれ、国民の心が満たされていれば、宗教は興隆しないと思います。

日本も、聖徳太子の時代からそうでしたし、仏教は時の権力者に良くも悪くも利用されて来ました。
今でも公明党という政治団体なのか宗教団体なのか曖昧なまま、与党として日本の政治を動かしています。

チベットに住む人々の宗教観は、過酷な自然環境故に宗教に救いを求めなければ生きていけません。
生まれ変わって真の幸福を得ようという輪廻願望思想と、心の持ち方として内に向かう仏教がマッチし育まれたのだと思います。

その地域の環境に適合した宗教観を持つ個の集合である地域または国に住む人々をうまく統率しようとするところがネックなのでしょうけど、これを政治力とするなら、チベット仏教の教主であるお立場であるはずのダライ・ラマ法王は、チベット政府が仏教を軸に存続しているため、仏教を説き伝えるだけではなく、政治という生々しい仕事にも大きく関与しなければならいような、厄介なお立場に、仏教徒としての悲劇があったのだと思われます。

当時のダライ・ラマ法王を指導者とするチベット政府は、武力による侵略から国土や国民を守れなかったことになります。
今も仏教的平和主義ということで、武力による攻撃に対しては、ただ受身であれと指導されているようです。
ですので、軽い抵抗は許容できても軍事力で交戦したり、チベット以外の同じ仏教徒が、軍事力で助けることもままならないということになります。
最近まで焼身による抗議が後を絶たなかったそうです。悲劇としかいいようがありません・・・。
耐えることしかないのでしょうか・・・。

政府であれ教団であれ、大きな集団ができた時には必ず「権力」という「力」が自然発生するものです。

性質の良し悪しはあるものの、清らかなはずの思想で集まった宗教団体の中にも、統率する側とされる側があり、統率する側にはある種の権力が発生します。自然なことです。
権力を得た者は、弱者である善良なる国民を守るべきで、守れなかったら、ただのお山の大将に過ぎないと思うのですが・・・。

チベットを侵略した当時や文革当時の中国政府は、仏教思想が共産主義思想と競合すると恐れたのか、遊牧民族の自由な生き方やその文化が共産主義と合致しなかったのか分かりませんが、いづれにせよ、手っ取り早く力ずくで侵略し改革しようとしたのだと思います。
実は、その統率する側の権力、権限、暴力といった、いただけないシステムさえ除けば、思想的には、よく似ている部分もあるのですが・・・。

共産主義という思想を元に国を統率しようとする術(戦略)は、洗脳教育であったり、力ずくであったり、いろいろあるとは思います
が、聞くところによりますと、10年ほど前から、中国政府が、仏教の素晴らしさに気づいたのか、利用しようと考えたのか、分かりませんが、国民にとっても政府にとっても必要なものとして、その考え方を急速に柔軟にシフトしたようです。
これは今回の放送でも伝えていたように思います。

したがって、チベット問題は、失礼な表現で恐縮ですが、「武力による侵略に、なす術もなく屈っせざるを得なかった国民(民族)の悲しい事件」だと思うのです。

今の現実として、今回のレポートによっても分かるように、チベット亡命政府が、『中国政府による仏教弾圧』として世界に同情を訴えてきた戦略が、中国政府のラルン・ガル・ゴンパ(五明佛学院)に象徴されるように、仏教容認シフトで通用しなくなっていることは確かなことですので、チベットが独立した地域に戻ることを望むチベット亡命政府の悲願を達成させる術(戦略)は、ある程度、仏教と分離したところに、その方法を見つけ出さなければならないのだろうと思います。

仏教は、仏教を命がけで守ることを説いていませんし、命をかける類のものでもありません。

必要とする人さえあれば仏の教えは不滅です。

仏陀は、あくまでも、あらゆる過酷な環境に置かれても、個を苦しみから救い、個を安定させ、輝かせるための思考方法を説いたに過ぎません。

敬虔な仏教徒が武器を持って権力者や侵略者に立ち向かうという図式はあり得ませんので、チベット地域が中華人民共和国という枠組みに入ってしまった以上、やはり、これからも多数派の漢民族と一緒になって民主化にむけて、国内で地道に戦うしかないように思います。

番組のレポートであったように、力ずくで統率してきた共産政府とはいえ、今でもそのような緩やかなシフト傾向はあるのですから、完全民主化に成功すれば、チベット密教をはじめとした仏教文化は一気に広まり、独立国家としてのチベットが決して理想的だとは思いませんが、独立国家も夢ではないと思います。

今の中国の仏教僧を目指すエリート学生たちをはじめとする若者が、真のりっぱな僧に成長し、中国人民を正しい方向に導けば、中国は必ず民主化され、いい国になる。 そう信じて応援し、見守りたいと思っています。