早朝の信号無視は間違ってるの? | しょうかんのうだうだ

しょうかんのうだうだ

仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

通勤の自転車のペダルを漕ぎながら考えた。
いつも考えることだが、私の考えが間違っていると周囲の人は首をかしげる。

それというのも、今朝もそうなのだが車が通過する気配のない早朝の押しボタン式の赤信号。
私は、基本的に赤でも車が来る気配がなければボタンを押さずに通っても良いと思っている。

道路交通法では、

・青 色 = 進むことができる
・黄 色 = 止まれ(但し、危険が伴う場合に限り進む事ができる)
・赤 色 = 止まれ
・黄色点滅=周りの交通に注意して進むことができる
・赤色点滅=一時停止

ということなので、私の行為は、道路交通法違反ということのようだ。

早朝の大通りは車の通行が少なく、道路を横切る人も少ない。自転車一台横切るだけで、押しボタンを押すのは、憚(はばか)れる。
私が、ボタンを押すと、1分間は車の通行が遮断され、私の通り過ぎた後も、数台の車が停車しなければならなくなる。

私が少ない交通量の隙間を選んで速やかに横断すれば、それで済むことなのだが、押しボタンを押すことによって
通行中の車を運転している人たちの貴重な時間を奪うことになってしまうのだ。
親の死に目に合えない人もいるかもしれない・・・。

そもそも、規則や法律というものは、我々が集団で快適に社会生活を営むのに便宜的に決め事をしたものに他ならない。
決して正義や真理ではない。揺ぎ無い確固たる「正しいこと」ではない。

毎年たくさんの法律や規則が作られ、ともすれば、自分たちの作った規則に雁字搦めになり、かえって住み難い社会を構築していることにもなっている。

規則を守りましょう。法律は守りましょう。規律正しい社会を構築しましょう。
一見、戦争も無く穏やかで高度な社会のようだが、個人が「社会」という誰が望んだのでもないある種の「 型 」に嵌ってしまい、各々の宗教観に基づいた道徳観から深く柔軟に考えることを忘れ、法律こそが神か仏のように割り切り、規則が出来てしまえば、これ以上考えることを怠り、正しく生きることに価値を見出そうとせず、不誠実に生きているように思えてならない。

「くだらない法律がやたら多い国は病んでいる」と誰かが言っていた。

誰かの利益の為に作られた法律がいっぱいあるのに・・・。

法律や規則の源には、かならず、道徳や倫理があるはずだし、その道徳や倫理の根源には宗教観が存在しなければ成り立とうはずがない。

ちょっと前まで、各々が優しさ、慈悲心こそが絶対真理として、社会生活を営んできた。

いわゆる、「思いやり」が社会生活の絶対的な価値観であった。

ところが、今では「思いやり」よりも「法律・規則・損得」が優先され、それ等に振り回されている。

どこかが狂ってきた・・・・。

「信号を守れないお前が発言することではない」と、人は言うのだろうか・・・。