安達原玄先生のこと | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

本日、群馬県から当工房付属のギャリー、仏画館に来客があった。
今月の28日からこのギャラリースペースで両界曼荼羅を描き始めるので、この仏画展示ギャラリーを2年間ほど閉めることになっていたのだが、ぎりぎりセーフだった。

二階の工房で、当麻曼陀羅と小品の制作。
同時に一階のギャラリースペースを工房にして両界曼荼羅の二作を並べて制作しようとしているわけだから、この年齢にして、たいへんな肉体労働となることは確実である。

この来客、たまたま、当工房で修行中の弟子の実家と近いという事で、その弟子に対応してもらった。
世間というのは狭いもので、弟子の母親の実家も良くご存知ということのようだった。
その方はお年が64歳ということで私と同じ御年。
山梨県の安達原玄先生のところで写仏を習い、退職後3ヶ所の教室で写仏を教えておられるということだった。

その方のお話の中で、今月9日にその安達原玄先生がお亡くなりになったとのことをお聞きした。

安達原玄先生といえば、2002年に私の故郷、五個荘町(現東近江市五個荘)主催で、『藤野正観の仕事展』を催してもらったことがある。
初日だっただろうか、京都から車で毎日出かけたのだが、開館前の早朝の入口に、緑色のドレスに身を包んだ上品な中年の女性が、入口を脊にこちらを向いてたたずんでおられた。

私が近づくと、その女性も近寄って来られ、挨拶を受けた。

「安達原と申します。藤野先生でいらっしいますか?」 安達原・・・? 「あぁ、あの安達原先生ですか!」とビックリする私。

私が仏画を描き始めようと、手当たり次第に資料本をかき集めていた頃、その中にこの安達原先生の書かれた、「写仏教室」という本もあったことを思い出した。

こういった類の写仏や仏画の教本で、仏画とはこういうものか、出版された先生方には悪いがこの程度で良いのか、この程度の描画力でいいのかなどと、それまでの自分の勉強してきた描法に確信と自信を持つことができ、当時の仏画制作の現状を知ることができたわけである。

朝から昼過ぎまで、ご一緒に食事を摂りながら、いろいろお話をお聞きしたり私も仏画に対する思いを語ったりと話が弾んだ。

その長い話の中で、印象に残った話で、今も気になっていることがある。

先生がお亡くなりになったとお聞きして、未だに私の仏画に対する想いが伝えられていないことが心残りであり、かといって、その役が私にとって適人かどうか、自信がないところでもあるのだが・・・。

その話というのは、こうだ。

その当時、私が中外日報にエッセイかコラムか何か知らないが書かせていただいていた。
隔月で6年ほど続いたと思う。

その記事の中で、現代の仏画関係の出版物や仏画教室、そして描法が、あまりにも素人相手の無責任な指導内容に対して疑問を書いたのだが、先生はそれをお読みなって気になっておられたらしい。

「私は、曼荼羅に出会い、その白描を写すことで満たされ幸せを感じている。その幸せを一人でも多くの方にも経験して頂きたくて、勧めもあって本を出版した。
(写仏)と言う語句も、日貿出版社の石田編集者と造語した。このことに後悔はしていないが、確かに先生(私)の言われるように、伝統的な仏画の制作を目指す方にとっては間違いが多いと思う。
自分も仏画展の案内を頂き、東京に出向いてもがっかりすることが多い。これも、私がこういった素人にも描けるといった写仏を広めたせいで、伝統的な仏画の制作と勘違いされた方が増えたのではないかと思っている。このことに責任を感じている。
今日、山梨から出向いた理由は、伝統的な仏画を制作されている先生(私)に仏画の体系化をお願いしたいという思いで来たのです・・・。」
簡単にまとめると、こいうことだった。

私は、当時はまだ52歳で、仏画を描き始めて未だ18年程度。
まだまだ駆け出しの仏画制作者で、今もそうだが、いただいた仕事を一生懸命しなければご飯が食えない身だった。
なので、「仏画の体系化など、現役を退いてからのご奉仕仕事ですね。」などと、こんな意味のことを、お伝えしたのを覚えている。

今年の10月で、私は65歳になろうとしている。

せっかく、遠方から来て頂いた先生に対し、あの時の私の返事は、あまりにも現実的で生活じみていて、先生の想いや期待にまったく応えられなかった。

私の考え方をきちんとまとめて、お知らせせねばと、ずっと気になっていた・・・。
いづれ、手紙を書いて読んでもらおうと思っていたが、さて書こうとすると、構えてしまいうまくまとまらなかった。
その後、先生からのお手紙や展覧会のご案内をいただく度に、そのことが気になり、先生への申し訳ない思いが増幅していった。

私の母親と同じ年の86歳で、あちらへ逝かれたことになる。
私が初めてで最後にお会いしたのが、逆算すると73歳だったということになる。
そんなお年だったとは、あのソフトで燐としたお姿から感覚的に感じ取れていなかった・・・。

このページを借りて、先生のご冥福をこころから祈念しよう――。