敵の英兵422名を救助した日本海軍駆逐艦「いかずち」のお話
天皇皇后両陛下がエリザベス女王の戴冠60周年の昼食会に出席される為、イギリスを訪問されている。
イギリスといえば、以前こんな記事を読んだことを思い出す・・・。
知らなかったこととはいえ、第一次大戦後、連合軍の一部の人たちや、特に中国や朝鮮半島に住む一部の人たちに、国民や家族を守る為出兵した私の父の世代が鬼畜のように愚弄され続け、居た堪らない気持ちで居た時に、敵の英兵422名を救助した旧日本海軍の記事を読んで、ずいぶんと救われたことがあった。
1953年、当時19歳で皇太子だった今の陛下が、昭和天皇の名代として初めて海外訪問されたのが、イギリスだった。
陛下は「私の父である天皇陛下の代わりに、女王陛下の戴冠式に参列できることは、私にとって、最も喜びとするところであります」と英語でスピーチをされた。
当時、イギリス国民の間には、戦争による根強い反日感情が残っていた。
しかし陛下は、エリザベス女王の戴冠式に参列したほか、エリザベス女王と一緒に競馬を観戦したり、当時の反日感情の拡大を危惧し、戦後は共に君主を崇める国どうしとして友好を深める方向で考えたチャーチル首相が、皇太子を昼食会に招き、反日報道を繰り返す新聞社等に紹介した時も、そのチャーチルの好意に英語でスピーチされるなど、43日間の滞在で、戦後の日本とイギリスの友好関係を深めることに努められた。
当時のことについて、陛下は1993年に、「(イギリス訪問は)私に世界の中における、日本を考えさせる契機となりました」と振り返られていたという。(FNN)
以下は、保存しておいた「第一次大戦に出兵した父を持つ私の救われたお話。」として、特に若い世代においては、その頃の日本男児の精神構造の一面をよく知ってもらえるのではないかと思う。
ぜひ読んでみて欲しい・・・。
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今の天皇皇后両陛下が、以前にイギリスを訪問されたのは今から14年前の1998年5月。
イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎に応えた。
しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求したのだった。
この抗議行動に、イギリス政府は「遺恨が日英関係を支配してはならない」(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。(読売新聞)当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。
ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。
しかし、イギリス国民の感情は二分された。
戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。
そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。
その投稿は、元イギリス海軍士官からのものだった・・・。
戦後は、スウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)だった。
フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。
このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。(産経新聞)
実は、この救助劇は歴史に隠れ続けた。誰も知らない。知る術がない。
手前味噌が当たり前の現在とは違い、実に奥ゆかしい、日本男児らしい世界に通じる美談なのだ。
日本海軍の駆逐艦「雷」が救助したイギリス海軍兵はフォール卿だけではない。
日本艦隊は英米欄の連合艦隊15艘と戦い11艘を撃沈した。
合戦後たまたまそこを通りかかった「雷」の見張りが望遠鏡で遠方に漂流物を確認。
その漂流物は敵将兵らしく、その数400以上との報告が艦長にされた。
艦長の工藤俊作は、次の瞬間「潜望鏡は見えないか」確認させると、見えないとの返答に救助を命令した。
この海域では敵の潜水艦7艘が撃沈されたばかり、前日には味方の輸送船が攻撃を受けて沈没した危険海域だった。そこを「雷」の乗員220名は、全員敵兵の救助活動を行い、乗組員のほぼ倍の422名を救助したのだった。(「敵兵を救助せよ!」恵隆之介著草思社刊)
これは、壮絶な救助行動だったようで、救助活動中は敵も味方もない懸命な活動だったという。救助のため命令に背き海中に飛び込んだ日本兵もいた。「雷」の甲板は救助されたイギリス兵で埋め尽くされ、撃沈された際に流れた重油が体中をまとわるのを日本兵は丁寧にアルコールでふき取り、シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクと、ビール、ビスケットの接待がなされたという。
その後、イギリス海軍の21人の士官が集められ、工藤艦長が端正な挙手の敬礼をした後流暢な英語でスピーチをし、「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と伝えた。
フォール卿はこれは夢ではないかと何度も手をつねったという。(同)
フォール卿は、この工藤艦長の功績をアメリカ海軍機関紙に寄稿した(1987年)。
またジャカルタで行なわれたジャワ沖海戦50周年記念式典(1992年)でも称え、自分史を刊行した際も「帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と書いている(1996年)。
さらに、2年後の天皇皇后両陛下イギリス訪問時にもタイムズ紙に工藤氏の実名を上げて投稿し、ずっと工藤氏の消息を探し続けたがつかむことができなかった。
心臓病を患いながら、3年前に「人生の締めくくりに」と来日し工藤氏の墓参と家族への感謝の気持を伝えたかったようだが、分らず離日した。
その際、「敵兵を救助せよ!」著者の恵隆之介氏(元海上自衛隊)に墓と遺族を探してくれるように依頼したようだ。
恵氏はその約束を果たし丹念に工藤氏の足跡を辿った。
しかし、この救助劇は工藤氏の夫人にも話されていなかったことで、知る人はまわりにいなかった。
たどるうちに「雷」の乗組員のうち2名が存命であることが分り、このときの様子が再現されたのだ。
本書の構成は、劇的な救助の場面より、工藤艦長の生い立ちと、その時代背景、また郷里の様子が重なるように書かれ、日本が大戦に突入していく流れが海軍の視点から描かれている。
工藤氏が敗戦後は自衛隊関係の仕事に着くことなく、静に語らずこの事実を公にしなかったことも不思議だが、最大の不思議は、一生恩を感じて生きたフォール卿が何度も工藤艦長の功績を公にしながら、日本のマスコミが一度も取り上げなかったことだ。
特に両陛下が訪英されたときのタイムズ紙の投稿には当然気付いていたはずで、わざと取り上げなかったのではないかと思うほどだ。
読売新聞も朝日新聞も工藤艦長に関する記事は一行もない。
産経新聞だけが恵氏の取材結果を紹介する形でこの功績を戦後60周年の連載記事中で紹介している(2005年9月)。
恵氏の著書からは、日本海軍がいかにイギリス海軍と近い関係にあったかが分る。それが日英同盟の礎だったのだろうが、第一次大戦後アメリカの力がどんどん強くなるにつれて、アメリカが日本をアジアでの最大の脅威として、日英同盟を破棄させた経緯が書かれている。
この記述は、先に公表された富田メモで昭和天皇が日独伊の三国同盟を嫌う様子がうかがえたが、日英同盟を日本のリベラル派がいかに重視していたを著している。
工藤艦長の救助劇は、恐らく世界の歴史の中でもまれなことだ。
この事実を日本国民が知ったのなら、どれだけ励まされたか分らない。
戦後すぐでももちろんそうだろうが、10年後20年後30年後でも同様だ。それが60年を経過後も日本のマスコミと出版界に一切登場しなかったというのは、たまたまではないはずだ。
日米関係にとって面白くない話は極力避けられる風潮が今でも日本にあるという事を物語っている。