こんにちは!

今日は10月31日、今日で10月も終わり、今年も残り2ヶ月となりました。

郵便配達のお兄さんが配達がてら、「年賀状の申し込み如何ですか?」 って聞いてきました。

もうそんな時期なんですよね!

・・・明野もだいぶ冷え込むようになりました。


さて、今回も旅の続きと行きましょう!


14日の朝、長門温泉ホテル“大谷山荘”前からいよいよ萩、津和野の旅に出発です!


ホテル前を出発し、先ず向かったのは長門市内仙崎にある“金子みすゞ記念館”


国道316号線を長門市街に向かってしばらく進み、県道34号線へと右折して海岸線で国道191号と合流する手前で左折し、県道282号を青海島方面に向かうと、やがて記念館の表示が左側に見えてきて、道なりに市街に入ると、“金子文英堂”と書かれた縦看板の架かった小さな本屋さんのような記念館にたどり着きます。


大正から昭和初期に掛けて500余編もの詩を綴りながら26才でこの世を去った若き童謡詩人、金子みすゞは、ここ仙崎で生まれ育ち、女学校卒業後は家庭事情などから下関に移りますが、その後の複雑な家庭事情から自ら26才でこの世を去ることとなります。


彼女の育った仙崎は古くから漁業、捕鯨で栄えた村で、彼女の残した詩には自然や命あるものを慈しむ思いや、溢れるような優しさが感じられ、代表作である「私と小鳥と鈴と」や「大漁」などを読むと、彼女が生まれ育った仙崎の自然や、子どもの頃の体験が原点だったように思えます。



生家跡に建てられた金子みすゞ記念館、因みに文英堂はみすゞの父が支店長を務めていた書店の名称


記念館内部にはみすゞが使っていた文机が置かれていました。


しみじみとみすゞの詩を読み返し、つらかったであろう結婚生活の様子などを思い、それでもなお最後まで優しさを失わなかったみすゞの人となりを思いつつ、記念館を後に、萩市へと向かいました。


萩市へは県道282号に戻り、国道191号線に入って20キロほど、先ず立ち寄ったのが指月山に築城された萩城跡(世界遺産)


橋本川対岸から指月山を望む


萩城指月城とも呼ばれ、徳川幕府により周防・長門国、2国に減封された毛利氏(毛利輝元)が広島城に代わる城として1604年(慶長9年)に築城した城。

指月山の麓に天守、二の丸、三の丸を持ち(平城)、指月山の頂に詰丸(山城)を持つ構造だったが、明治になってから廃城令により建物部分が取り壊され、石垣と堀のみ残る今の形になったとのこと。



指月公園前に鎮座する毛利輝元公の銅像前で


堀に架かる橋のたもとで・・・後方の突き出た石垣が本丸のあった天守台


毛利輝元公の銅像の手前にある駐車場に車を駐めて、観光センターや萩焼資料館などを散策したあと、次の観光地、高杉晋作木戸孝充旧宅などが残る城下町(世界遺産)へと歩を進めました。



菊屋横町から、左のなまこ壁は菊屋家住宅、横町の名前にもなるほど、美しいなまこ壁が長く続く


菊屋横町内にある高杉晋作生誕地前で・・・


菊屋横町を南に抜ける左側の公園に立つ高杉晋作の銅像の前で




上の案内板に示された現在地の前の土産店の前で夏みかんのソフトをいただきました。



甘酸っぱいソフトクリームの味は、ここだけでしか味わえない味でした。



夏みかんは萩の特産(?)

明治新政府の要職だった小幡高政が萩の財政難、困窮士族救済のため、廃屋同然となっていた広大な武家屋敷の庭に植えたのが始まりで、明治22年には夏みかんや、その苗木の収益が、萩町の財政を追い越すまでになったとのこと。

今でも武家屋敷の外からその名残を見ることが出来ます。

 

武家屋敷の塀の外にまではみ出してたわわに実る夏みかん


夏みかんソフトでちょっぴり小腹を満たした後、青木家住宅木戸孝充の住居などを拝見し、萩町を横切って、松陰神社へと向かいました。



毛利敬親の侍医を務めた藩医であり蘭学者の青木周弼の旧宅



木戸孝充(桂小五郎)の旧宅前で


日本海に突き出た指月山の麓の萩城跡から東側、橋本川と松本川に囲まれた三角州の中に城下町が広がり、城跡周辺には武家屋敷や豪商の家が建ち並んでいます。


その城下町を横切るようにして町の東側に位置する松陰神社へと向かいました。




吉田松陰を祀る松陰神社に詣で、その境内に現存する松下村塾(世界遺産)や松蔭が幽閉された、吉田松陰幽囚の旧宅(世界遺産)などを見て回りました。



松下村塾全景・・・わずか10坪ほどの小さな塾、右側の10畳ほどの部屋は手狭になったため塾生達が建て増した部分


ここから近代日本が始まったのかと思うと、胸に迫る物がありました。


塾右側の部屋・・・昨年のNHK大河ドラマ“花燃ゆ”を思い起こさせてくれました。



吉田松陰幽囚の旧宅・・・アメリカ軍艦での渡米に失敗し、野山獄に投獄後釈放され杉家預かりとなり、謹慎生活を続けた家

松蔭が謹慎した部屋はこの家の3畳半の部屋とのこと。

ここでの謹慎生活中に多くの若者達が集まり、松下村塾開講の礎が作られたとのこと。



花燃ゆ”の舞台、現存する松下村塾松陰幽囚の旧宅を見学し、当時の熱い志を持った志士達に思いをはせながら、次の目的地、津和野に向かいました。


津和野までは約70キロほどの道のり、県道11号をひたすら走り続け、三谷で国道9号に合流、さらに北に向かって走り、津和野に向かいました。


昔から山陰の小京都と呼ばれる津和野、国道9号線から左に折れて津和野川に沿って走る県道13号線沿いにその町は開かれています。


小さな町はベルギーの世界一小さな町としてギネスにも認定されているデュルブイの町を思い起こさせてくれました。


小さな町には数多くの観光スポットが点在しているとのことでしたが、時間の都合上、鯉の泳ぐ掘り割りと石畳で知られた殿町通りを散策することにしました。


花より団子!  ・・・通りの近く駐車場に車を駐めて、遅いお昼をいただくことにしました。


駐車場のおじさんに、「津和野の美味しいものは何だろう?」 って、聞いたところ、


「津和野の郷土料理で美味しいのはね、“うずめ飯” て言うのがあるから、それを食べるといいよ!」


と、教えてくれました。


「そのはす向かいのお店でやっているから」 といわれ、入ってみることにしました。


綺麗な和風のレストランで、出てきたのがこれでした。
 






大きなお椀に盛ったご飯にお吸い物をかけたようなものが出てきたのですが、箸をつけると、中からいろいろな具が出てきて、ご覧の様に・・・
 







前菜もついて、とても美味しくいただきました。


名前の由来は、具を見えないようにご飯の中に埋めて盛ったことからで、贅沢を嫌った津和野藩主に見つからないようにおかずを隠して食べたという説があるようです。


後で分かったのですが、いただいたお店、“沙羅の木” は、津和野出身の森鴎外の作詩「沙羅の木」に因んで名付けた、津和野では老舗の有名店でした。

お腹を満たした後、殿町通りを散策しました。


写真で見た通りの閑静なたたずまいで、大きな鯉が泳ぐ掘り割りには花菖蒲が植えられていて、花の時期は更に美しい町並みに変わるだろうと想像をかき立てられました。




青い空の下、美しい石畳の殿町通りと鯉の泳ぐ掘り割り


優美に泳ぐ錦鯉


 

そうこうしている間に、かの有名なツアー会社の大型バスが乗り込んできたので、早々に退散、今日の宿泊地である安来市まで移動することにしました。


津和野を出たのが午後2時半頃、再び国道9号線に入り、海岸線にある益田町に向かって山中をひた走り、益田からそのまま海岸線に沿って国道9号線を松江市方面に向かってただただ走るのみ、その距離約200キロ。


長門のホテルを出て、に寄り、島根県にはいって津和野に寄り、島根県の西から東の安来市まで、その距離約300キロ、一般道だけで走破する(一部宍道湖周辺は専用道)のはかなりハードでしたが、午後6時15分、無事に足立美術館のすぐ隣にある宿、“竹葉” に到着しました。


お風呂は、天然掛け流しの温泉でした。

建物は古く小さな宿でしたが、おもてなしの心は十分でした。

十分旅の疲れを癒すことが出来ました。



そして15日、足立美術館を堪能し、友人の待つ大阪に向けて発つ日です。


足立美術館は9時から開館、宿のマスターの話ではシャッターが開いていれば8時半から入館できるとのこと。

早速荷物を預け、8時半に入館。


日本一見てみたい日本庭園を有する足立美術館に入ることが出来ました。


展示されている美術作品は全て撮影禁止!

撮影出来るのは庭園のみ!


作品はしっかり目から脳みその中に収めてきました!


では素晴らしい庭園の一部をご紹介します。

その美しさはやはり自分の目で見た方が良いと思いますが・・・







 



見疲れて、館内のカフェでお茶をいただきました。


バニラアイスクリームに熱々のコーヒーを掛けていただく、コーヒークープをいただきました。


メニュー画像

                          (レストランのしおりからいただきました)


バニラアイスの香りがとても良く、コーヒーもまた格別で、ベストマッチで美味しくいただきました。


 


 


 

館内に約2時間、美味しいお茶をいただき、素晴らしい庭園と、名だたる日本画家の作品を十分堪能して美術館を後にしました。


10時半頃に美術館を出発、山陰自動車道に入り、米子自動車道、中国自動車道と乗り継いで、大阪吹田JCTに向かって走り、吹田で近畿自動車道に入り、松原JCT手前で下りて、一般道を走り、堺市の友人宅に向かいました。


すんなり着いたようですけれど、実は我が愛車ボルボ君のナビは更新などしていないので、11年前のもの!

現在位置を示しても道なき道を走っていることがよくあって、当てにならないしろもの!

なんてったって我が愛車ボルボ君もこの11年間にもう12万7000キロも一緒に走っている強者ですよ!



蒜山高原のサービスエリアからの大山全景



途中蒜山高原でお昼をいただいて、約300キロの道のり、約4時間半ほどの走るばかりの旅でした。


電話交信しながら何とか位置確認し、午後3時頃、無事友人宅に着きました。


家内の藤沢在住時代からの古き良き友人、Kさん夫妻は暖かく迎え入れてくださいました。


綺麗に模様替えされたお部屋に案内されて、着いてから夕食をいただいて就寝する12時頃まで、改修工事のことや今までのことなど、話、話、話、・・・・!


・・・話詰めで・・・疲れて寝入りました!



16日、いよいよ家路に着く日が来ました。


Kさん夫妻が奈良を案内してくれるというので、遠慮無く一緒に行くことにしました。


西名阪道を奈良方面に向かい、天理で下りて奈良町に向かいました。


興福寺(世界遺産)近くの駐車場に車を入れて、4人で奈良町界隈を歩き、Kさん達が以前食べたというお店でランチをいただきました。 
 


 奈良町は昔の風情が残る、碁盤目状に細い道が幾つも交差する町。

しっかり後をついて行かないとはぐれそうな町。


  


 願掛け地蔵のようなお堂やら・・・


 


 ちょっと怪しくて、ちょっと親しみやすそうなお店や ・・・いろいろ楽しい町でした。



そろそろKさん達ともお別れの時間、駐車場の前で別れることにしました。



別れてから、 混み合っていたので別の駐車場に入れた、その場所から、


興福寺の五重塔が晴れた青空の下で、「此方に来れば!」 て、誘っているようだったので、


最後の観光場所にしようと言うことになって、誘いに乗ることにしました。


 

駐車場から興福寺に向かって・・・
 

猿沢の池で羽を休める白鷺

猿沢の池の前の大きな石段を登って境内へ入りました。


 

五重塔東金堂の前で
 


 

夢殿のような形の南円堂・・・境内には沢山の外国人観光客の姿が見えました。

 


興福寺を後に、駐車場に戻り、いよいよ明野に向かってラストトライアル!

 

午後2時半頃にパーキングを出て、西名阪に戻り、名古屋方面に向かってアクセル全開! 

・・・では無いです!安全第一です!!


天理市からは一般道、名阪国道(国道25号線)です。


順調に伊賀を抜けて東名阪自動車道に入る亀山の手前で事故渋滞に遭遇!


4時前から1時間ほどノロノロと亀山辺りまで、動き始めたのが午後5時少し前、その後は順調に走り、名古屋から名神、東名と乗り継いで、小牧JCTで中央道に入り、順調に須玉ICまで、明野には残り5分で到着!


明野到着は午後8時15分頃でした。


奈良町のパーキングから6時間弱の旅(ドライブ)でした。

渋滞が無ければ7時過ぎに帰宅できたのがちょっと残念な旅(ドライブ)でした。


走った距離2260キロ、ボルボ君のメーターが12万7000キロを越えていました。


ボルボ君、11年間未だ故障も無く、経済的に走ってくれて、


12キロ/L の優秀な性能を維持しています。


5泊6日の旅、


何事も無く、楽しく、旅が出来たことが、


最高の旅の思い出になりました。


ボルボ君! 


また一緒に走れるかな!?