こんにちは!


今日は8月21日、8月も残りあと10日となりました。

夏休みを利用して来庵されるお客様のおもてなしに追われ、あっという間に3週間ほどが過ぎ去ってしまいました。


今年は例年に無く暑い日が続きましたね。

おまけに毎日のようにリオ・オリンピック参加選手達の活躍を知らせるニュース映像!

“熱い” 戦いを観る度に、“暑さ” 倍増です!!


我が家ハーミテージ・ウィステリアの夏のお客様が途切れた翌日、今年も家内の姪のちゃんが夏休みを使って2連泊で来庵しました。


毎年恒例で、夏休みのひととき、南アルプスや中央アルプス、八ヶ岳周辺などをドライブし、“高原の涼” を楽しんでいます。

今年は天気が良ければ、北アルプス方面まで足をのばし、周辺のドライブ旅行を楽しもうと思っていましたが、この連日の異常な天気、雲が多くて山旅は楽しさ半減なので諦めました。


そこで先日寄ることが出来なかったもう一つの真田氏ゆかりの地、“松代” を、Kちゃんと歩いてみようということになりました。


松代は長野市の善光寺の南に位置する小さな城下町、徳川幕府となってから1622年(元和8年)、関ヶ原の戦いで徳川方に組した真田昌幸の長男信之(信幸)が上田城から移封されて以来、明治維新まで真田氏が治めた地です。


町の一角には真田氏と関わりのある史跡が沢山の残されています。


前回と同様、141号線で佐久経由で松代まで直行することにしました。

佐久から中部横断道に入って、今回はそのまま上信越道に合流し、長野方面に向かって更埴JCTで長野道に入り、長野ICで降りました。


ICを降りればもう松代町内です。


実は、長野県は20代の頃から幾度となく車で走り込んだ地、特に長野市周辺、松本市周辺は地図が無くとも地形を頼りに走れば行けない所はないほど走り込んだ場所でした。


しかしこの数十年足は途絶え、久しぶりに訪れてみてビックリしました。・・・あまりの変わりように!


長野オリンピック以前、高速道路は無く、道と言えば一般国道、県道のみ、更埴、松代、須坂、小布施、その周辺のスキー場、どこへ行くにも一般道路のみの時代でした。


松代の町も様変わりしていました。

初めて訪れたのは30代前半の頃だったように記憶しています。

もう40年近く前のことです。


高速を出て最初に松代町内に入ったのですが、高速が出来て、あたらしい道が増えて、昔たどった道がどこだったのかさっぱり見分けがつきませんでした。


松代に入って最初に見つけた旧松代藩鐘楼


旧松代藩鐘楼・・・初代藩主・信之が1624年(寛永元年)に設置されたもので、その後3度の火災で焼失し、現在のものは1801年(享和元年)に再建され、2012年に修復工事されたものだそうです。


真田邸近くに来たとき、周辺のお屋敷に植えられている台杉など、背の高い樹木の全体風景に懐かしさを覚え、

「あっ、ここだ!ここだ!」  って、一瞬叫んでました。


真田邸近くの駐車場(記憶にあるのはもっと鄙びたひろい原っぱのような場所だった)に車を置いて、先ずお昼をいただくことにしました。


駐車場のすぐ脇、松代城跡(海津城跡)公園前に立派な和風レストラン“竹風堂”が建っていたのにまたビックリ!

竹風堂は、栗菓子で有名な小布施が本店、松本市内などにも支店を持つ、老舗です。



3人一緒にお店自慢の栗おこわのセットをいただきました。


美味しい和風ランチをいただき、最初に訪れたのは松代城跡公園(海津城跡公園)







松代城跡公園(海津城跡公園)

松代城は、もとは海津城と呼ばれ、戦国時代武田信玄が上杉謙信との戦に備え山本勘助に築城させたと言われています。

NHKの大河ドラマ“真田丸”でも前半のお話に登場した場所ですが、徳川幕府になって後、1622年、真田信之が初代城主となって以来、明治維新まで真田氏の居城となってきました。


廃城後は城としての景観を失ってきましたが、昭和56年に現存する真田邸(新御殿)とともに国の史跡に指定され、櫓門、木橋、石垣、土塁、堀などの修理復元が進められ、平成16年から江戸時代後期の姿で一般公開されたということです。


私たちが初めて訪れた頃はこれほど立派な姿でなかった様に記憶しています。

真田邸は訪れていましたが、城跡はどこなのか分からなったように記憶しています。)





復元された本丸跡の土橋前で



本丸の周囲を囲む内堀、城跡を示す図に表された外堀は埋め立てられて現在はありません。


城跡公園周辺が驚くほど綺麗に整備されていました。

道路は昔の城郭を思わせるような大きな平石が敷き詰められていたり、細かい砂利が敷かれていたりして、昔の面影が全くありませんでした。(昔の方がノスタルジックで味が有ったように思いました・・・)


城跡公園を一巡りしてから真田邸(新御殿)へ向かいました。


現在の真田邸は江戸後期1864年(元治元年)に建てられたもので、江戸末期参勤交代制度が緩められ、江戸住まいの9代藩主真田幸孝の義母、貞松院が松代に帰ることとなり、その居宅として建てられたものとのことです。

明治維新後は真田家の別邸として使われ、昭和41年に長野市に譲渡されたとのことです。



真田邸は昔訪れたときと同じ姿で私たちを迎えてくれました。

こちらも上田と同様、真田丸ブームで、“信州 松代 真田大博覧会”なる催しを開催していました。


以前訪れたときは屋敷の外からだけ見たように記憶していましたが、今回建物内部も公開され、生活用具なども適所に配置され、武家社会の生活が体感できるよう工夫されていました。



奥座敷から庭園を望む。








真田邸を出て、文武学校へと進みました。

以前は真田邸内から直接文武学校内に入れたように思いましたが、一旦屋敷を出て学校への道をたどりました。



文武学校へと続く、真田邸を取り囲む白い漆喰の塀



文武学校

松代藩が設けた文武併習の学校として1855年(安政2年)に開校され、修学所や剣道場、柔術場、弓道場などが設けられており、一時、松代小学校校舎としても使われた時代があったとのこと。


畳の部屋が幾つも続く修学所の長い廊下


ふすまを隔てて広い畳の部屋が幾つも続く修学所内部



高い天井を持つ、板張りの広い剣道場



剣道場の脇に建つ東序の上がり框でちょっと一休み!




剣道場と別棟の弓道場


文武学校を出てから観光案内図を頼りにこの地に来たもう一つの場所、矢沢家を訪ねました。


それは文武学校から10分ほど歩いた場所にありました。




矢沢家は上田を紹介したときにもお話しましたが、NHK大河ドラマ“真田丸”にも登場する真田氏の重臣矢沢頼綱・三十郎(頼幸)の直系、関ヶ原の戦いの後は当主となった真田信之に仕え、上田から松代への移封に伴い随行し、明治維新まで代々松代藩筆頭家老を務め、藩中最高位の家格であったとのこと。


現在表門のみ外部から観ることが出来、間口13メートル余り有る長屋門の大きさから格式の高さをしのぶことが出来ます。


両翼に白い漆喰壁の塀を設えた門構えは見事としか言いようのない風格が感じられます。



鬼瓦や破風に配された六文銭や白い漆喰壁などが堅固な城門を思わせる




現在の表門は2005年に起きた火災の類焼被害を受け、修復工事でよみがえったもので、当時の部材がそのまま使われている箇所が数カ所認められ、当時の被害の様子を垣間見ることが出来ました。

庇の桁などの一部に焼け焦げた部材がそのまま使われているのを見つけました。






さて、前回上田を紹介したときにちょっぴり触れた矢沢家との関わりについてですが、今度こそお話ししたいと思います。


私たちが長野方面を訪れるようになったきっかけからお話します。


30代前半頃、今でも発刊されている旅の雑誌、“るるぶ”に掲載されていたペンション“樹里庵”に初めて行ったのがきっかけです。

10月10日結婚記念日の小旅行に行ったのがきっかけでした。

樹里庵は、志賀高原の山田牧場の中にある、たった1軒だけのペンション!

秋の紅葉の美しさに魅了され、それからフルシーズン、幾度となく行くようになりました。

冬のスキー、春の山菜、夏の涼を求め、秋のピンと身の締まるような冷たさと秋の恵みを求め・・・



何よりもオーナーご夫婦の人柄とおもてなし料理のおいしさに惹かれたのかもしれません。


そんな何度目かのある日、

到着してキーをいただいたときにオーナーがポツリと言いました。


「今日は、3組様とも矢沢さんですよ!」 て、最初訳が分からず聞き返したら、


「お客様は3組様だけで、3組様みなさん矢沢さんです」 と、おっしゃいました。


何組もお客様がいて、その中に3組も同じ姓の方がいらっしゃるならともかく、

たった3組のお客様、それが全て同じ名字だなんて!  ・・・ビックリでした。

それも鈴木や田中、木下ならともかく、矢沢なんてそんなにある名字でもないので・・・


夕食後、プレイルームで休んでいたとき、そのうちの一組の矢沢さんとお話しする機会を見つけ、お話ししたら、同じくらいの年格好のご夫婦で、お住まいは長野市内とのこと、そして松代の矢沢家の末裔とのことでした。

もう一組の矢沢さんとはお話しする機会はありませんでしたが、オーナーの話では、お住まいは沼田とのことでした。


沼田真田氏の領地だったところ、そして沼田城は一時、矢沢頼綱・頼幸親子が城代をつとめた城でもあり、沼田に矢沢の姓が残っていても不思議ではない所。


目に見えない糸に引かれて樹里庵に集まったような、何か不思議な気分に浸ったのを覚えています。


それなら我が家の実家、藤沢の矢沢は何なんだ?


実家は藤沢の弥勒寺に400年前からつづく家、実家の寺“弥勒寺”に残る過去帳では実家の隣の矢沢家とは途中で分家したようで、弥勒寺町内ではその2軒だけで、どこから来たのかが不明。

隣の鎌倉には古くから何軒か矢沢姓が残っているようなので、そちらからの流れをくむのかなあと、いまは漠然と思っているところです。


真田丸が、矢沢氏のことを久しぶりに思い出させてくれて、矢沢という姓のルーツがもっと詳しく分かれば更に面白いのになあと、思うこの頃です。



さて、そんなことを思いながらそろそろ駐車場に向かおうと城跡の方へ歩いていたとき、小山田という表札を見つけました。


大きな門の脇に掲げられた案内板を観てビックリ!


お屋敷は、真田丸にも登場する昌幸の娘、が嫁いだ小山田茂誠の直系の方のお住まいでした。


真田信之に随行し、松代藩では次席家老を務めていたとされています。


小山田家の門前で記念にパチリ!




真田邸や、松代城跡の方から振り返って矢沢家表門、小山田家の在るまっすぐな通りを望むと、後方に見える山の形が昔の記憶を呼び戻してくれました。



夏の観光は暑さとの戦い!


同じ道を戻るのはつまらないからと、大きく道を変え、松代から長野善光寺の方へ進路を変え、善光寺の裏山から戸隠神社中社へと向かいました。



戸隠神社中社の鳥居・・・気温23℃ しかし、湿度高くあまり涼しさは感じられなかった。



戸隠神社はおそばが有名!

でもお昼に食べた竹風堂の栗おこわがまだお腹にあって・・・




代わりに、中社近くの喫茶店で、コーヒーとそばクレープをいただきました。


そして、県道36号線で鬼無里に出て、国道406号線で白馬まで、雨のそぼ降る曲がりくねった山道をひたすら走り、白馬から大糸線に沿って大町まで、そして豊科で長野自動車道に入り、須玉まで一直線に帰ってきました。


走行距離は350キロほどのドライブコースでした。


天気は今一でしたが、今年もKちゃんとの小旅行を楽しむことが出来ました。


来年は、どこへ行こうか? 走ろうか!