秋のバルト3国とポーランド紀行


前回にお話ししたとおり、先月中旬から下旬に掛けて、ハーミテージ・ウィステリアをちょっとお休みして、12日間ほどヨーロッパの北の国、バルト3国からポーランドを旅してきました。


乗り継ぎ便で、ドイツのミュンヘンを経由し、バルト3国のエストニアに入り、北からラトヴィア、リトアニアと巡り、ポーランドに入り、帰りはフランクフルト経由で成田に帰ってきました。


バルト3国は、バルト海に面した隣り合った国で、いずれもソ連崩壊直前の1990年(リトアニア)から1991年(エストニア、ラトヴィア)に掛けて独立を回復、まだ独立後20年そこそこのあたらしい国ですが、歴史は古く、第2次大戦に翻弄され、その後半世紀にわたるソ連統治時代の暗い時代をも乗り越え、それぞれの文化と歴史を守り、そこここに建国・復興の息吹を感じさせてくれる国々を巡る旅でした。


ポーランドも大戦後、半世紀にわたるソ連の影響下での社会主義の時代を乗り越え、民主国家として生まれ変わり、古い歴史や文化を守り、近代化と社会福祉のとても進んだ国であることを実感させてくれる旅でした。


バルト3国もポーランドも自然に溢れ、秋の国道沿いには、針葉樹の緑と黄色く染まった広葉樹の森や、収穫の終わった農地や牧草地が限りなく広がる風景を思う存分堪能することが出来ました。



それでは、バルト3国紀行からご案内しましょう!!


先ず今回の旅で一番北に位置するエストニアから!


成田を朝発って、初日はエストニアの首都タリンに夜遅く着きましたが、とても寒く、バスから降りると雪!

さっそく雪の洗礼を受け、寒さに震えあがってしまいました。

ホテルに駆け込み、即、就寝!   Z・Z・Z・・・



翌日(2日目)は、終日晩秋のタリン市街を見物。

タリンはバルト海に面した港町。そして5年に1度「歌の祭典」が開催される屋外音楽堂(歌の原)、旧市街を一望できる丘から展望したり、旧市街を散策したり、エストニアの農村文化を移築した野外博物館などをめぐりました。 ・・・・ とても寒かったです!


前日の雪が混じって冷たい風の吹くバルト海

遠くタリンの旧市街、港から出港したフェリーが寒そう!

タリンからはバルト海の向こう側の国フィンランドのヘルシンキまで定期フェリー便が出ている。

ヘルシンキまでは北に100キロほど。晴れた日にはヘルシンキの街を望めるとか・・・



屋外音楽堂(歌の原)・・・今はシーズンオフで何もなく、ただただ、寒かった!   


展望台からの旧市街の眺望・・・赤い瓦屋根で統一された市街は中世の街にタイムスリップした様な感じを与える。



街角で見かけたアーモンド菓子の売り子さん ・・・ グリム童話から現れた赤ずきんちゃん?

                                   車がなければ、そのまま中世の街風景!

                                 一箱買って食べました。おいしかったです。


アレキサンダーネフスキー教会 ・・・1901年支配者であった帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。

ロシア正教会特有の玉葱型の丸屋根はタリンの街では異質な存在。


アレキサンダーネフスキー教会の真向かいに建つ、トームペア城

1219年、デンマーク人が建てた騎士団の城。   


裏通りに入るとこのような坂道がそこここに見られました。

中世の街に舞い戻った様な錯覚!?


ラエコヤ広場の土産店のショーウインドーに飾られたお人形たち。

可愛いので、思わず一つ買ってしまいました。


ふとっちょマルガレータ ・・・ 中世に建てられた砲台。

その後牢獄として使われ、囚人達の食事を賄う太ったおばさんの名前からそう呼ばれる様になったとか。



野外博物館 ・・・ エストニアの農村風景。日本の農村の風景に酷似。

           

博物館内の構築物は全て国内から移築した実際に農村生活に使われていた物ばかり。

移築された村の小学校内で課外教育の子供達が ”お誕生日会” を催していました。




3日目は、ラトヴィアの首都リガに向けて約6時間バスで移動。

途中この旅初めての国境越え、何のチェックもなく、無事ラトヴィアへ入国!


早朝の出発。北国の夜明けは遅く、移動するバスの中で朝日を迎える。


国境近くの朝の川辺の風景


エストニア・ラトヴィア国境 ・・・ 検問所らしい物は有ったがパスポートの提示も何もなかった。

                   国境で両替! バルト3国はEU加盟国、でも通貨は未だそのまま。



午後から首都リガの市内観光。

リガは、人口約75万人のバルト最大の都市で、13世紀、ハンザ同盟に加わり発展した頃の教会などが、今も旧市街に残って、当時の面影を醸し出している。



リガはバルトのパリと呼ばれていただけあって美しい町並み。


旧市街に残るスウェーデン門、リガに残る唯一の城門。


スウェーデン門の向こう側に見えた綺麗な飾り窓の店

       

スウェーデン門の脇で見かけた、絵を売る露天商


ブラックヘッドのギルド ・・・ 大時計、リガをはじめとするハンザ都市4つの紋章、ギリシャ神話の神たちが壁面に並ぶ、個性的外観は街のシンボル。

第二次大戦で殆ど破壊されたが、灰燼の中から立派に再建された。


リガ大聖堂 ・・・ リヴォニア(現在のラトヴィアの北部とエストニアの南部)の宗教の中心的役割を果たした。


気温はタリンより幾分暖かくなった感じでしたが、日本の12月頃の寒さで、気温が低い割りには公園や郊外の森の紅葉は真っ盛りでした。 

この日ホテル到着が比較的早く、ホテル前の公園を散歩しました。

広大な公園は、紅葉というより黄葉、辺り一面黄色の世界。

湖水にはカモが群をなし、林の中は落ち葉が黄色い絨毯を敷きつめた様に積もっていました。

 

黄色い紅葉の中に比較的赤い紅葉も混じって秋を演出していました。

 


4日目、出発前の一時間ほど、昨日とは反対の方角に川に沿って散歩に出てみました。


川の向こう側に旧市街が広がり、大聖堂や教会の屋根や鐘楼が影絵の様にシルエットを形作り、まさに登らんとする朝日に映え、光っていました。

鳩が飛び交い、川辺には釣り糸を垂れる人の姿、・・・とても幸せな風景でした。


鐘楼の先端の風見鶏まで朝日に映えて・・・


リガで一番高い建物、テレビ塔も、何となくクラシックに見えてきて、それが朝日に映えて、浮き立つ様に見え、幻想的雰囲気を醸していました。


公園の上手には新市街と旧市街を結ぶ近代的な橋がかかり、朝のラッシュを迎え、通勤客を乗せたトラムやバスが休みなく往き来していました。

朝日を受けて、橋のたもとの公園で・・・近代的なスウェーデン銀行のビルをバックに

                              ハイッ!  パチリ!!


ホテルに帰る途中、街路樹のカエデの葉が朝日を受けて黄色く透き通る様に輝いていました。

     



散歩を終えて、今日も朝から長いバスの旅。

リガからリトアニアの首都ヴィリニュスへ380キロ。

途中バルトのヴェルサイユと呼ばれる「ルンダーレ宮殿」と、数え切れないほどの十字架で出来た「十字架の丘」を見学しました。


広大な敷地に建つルンダーレ宮殿  ビロン公の夏の離宮として建てられた宮殿。エルミタージュ美術館の「冬の宮殿」と同じく、イタリアのラストレリによる建築。       

   

ラトヴィア・リトアニア国境 ・・・ ここも両替のみで、フリーパス!


両替中のツアーの人たち



リトアニアの北部、リトアニアに入って初めて立ち寄った十字架の丘

各地から集まった大小無数の十字架で埋め尽くされ丘の様に・・・正面にはローマ法王から贈られた十字架が立っていました。


  

何を思うのか、小さな十字架に埋もれそうな ”憂うキリスト像”



丘には小径が形作られて、ふと足下に目をやると、日本の若いカップルが置いたのか、お互いの名前を記した十字架が置かれているのを見つけました。  お幸せに!!

  


長いバスの旅から解放されて、ようやくリトアニアの首都ヴィリニュスのホテルに着きました。

ホテル名は ”パノラマホテル”!  窓からの夜景をパチリ!



5日目は、リトアニアの首都ヴィリニュス市街を観光。

残念ながら朝から雨でしたが、ヴィリニュスは内陸に開かれた緑豊かな街で、旧市街を中心に、華麗なバロック様式の建物が数多く残され、現在では修復工事も進められ、当時の華やかさを感じさせてくれる街でした。


冷たい雨にたたずむ旧市街の家並み。  雨で遠くまで見渡せなかったのが残念!


街で見かけた課外授業の生徒と先生の一行。 カメラに気付いて明るくサインを送ってきました。


旅の途中でよく見た光景で、博物館では必ずと言っていいほど子供達の歓声が沸いていた様に思います。

日本はこんなに体験授業をしているだろうか?  ・・・・ちょっと考えてしまいました。


今回の旅、全ての国で見かけた光景!? ・・・・ 町中の昼間でもヘッドライトは点灯したまま!


我が愛車は、スウェーデン製のボルボ! ボルボには国産車の様なヘッドライトのオートスイッチが有りません

その理由が分かりました。  常時点灯! エンジンキーを抜くと 消灯!  ・・・納得!! 


街の居酒屋で見かけた看板・・・ビールがいかにも  旨そう!




聖アンナ教会 ・・・ 16世紀当時の技術が結集された、ゴシック建築の傑作として名高い、赤煉瓦作りの教            会。 ナポレオンが遠征の途中、余りの美しさに、「フランスに持ち帰りたい」 と言ったとか・・・




午後は、ヴィリニュスから25キロほど離れた、湖上に浮かぶトラカイ城を見学し、リトアニア第2の都市、カウナスに向かいました。


トラカイは、ヴィリニュスの前に首都であったところ。見所は湖上の小島に建つトラカイ城。

一時は廃墟となっていたが、復元され、博物館として戦史に関する資料などが展示されている。


城内の広場 ・・・ 中央の籠らしき物は拷問に使われた檻


昔は湖から水を引いて、堀になっていたとか・・・




6日目、今日はカウナスの市内観光後、バルト3国を離れてポーランドの首都ワルシャワに向かいました。


カウナスの市庁舎、カウナス城、聖ペテロ&パウロ教会、などを観て、日本のシンドラーとも称された杉原千畝記念館に向かいました。記念館で彼の生涯をまとめたビデオを見ることが出来、胸に熱いものを感じました。



正面は、聖ペテロ&パウロ大聖堂。赤煉瓦の美しい15世紀の大聖堂。


右側は、聖ペテロ&パウロ大聖堂。ヴィリニアウス通り側の外壁には、有名な詩人であり神父のマイロニスの墓が添え付けられている。


聖ペテロ&パウロ大聖堂の内部、正面祭壇。


カウナス城 ・・・ 13世紀、ドイツ騎士団の侵略を防ぐため造られた城。


カウナスの街角風景


カウナスの街角風景・・・分別ゴミの容器 

               図体はかなり大きくても可愛いのでうまく公園に溶け込んでいる。


ヴィリニアウス通りで見かけたショーウィンドーの飾り・・・なんとなくほのぼのとした感じが伝わってきます。


カウナスの市内観光後、ポーランドの首都ワルシャワに向かう前にリトアニアの旧日本領事官だった杉原千畝記念館に向かいました。


-1940年の7月、カウナスの日本領事館前に突然人垣ができた。ナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人だった。要求は日本の通過ビザ。ユダヤ人にとってヨーロッパに安住の地はなく、日本を経由し、米大陸に逃れることが唯一の生きる道であった。

当時の領事代理であった杉原氏は、悩んだ末に、ドイツと同盟国であった日本帝国の ”否” 

との回答を無視し、リトアニアを退去するまでの約半月の間、ビザを書き続けた。リトアニアを脱出する列車の中までそれはつづき、発行されたビザは、1600におよんだといわれる。

これにより、日本を経由し、第三国に渡ることができたユダヤ人は6000人を越えると伝えられている。

彼の功績は高く評価されており、館内には地元の大学の協力で、日本文化研究センターも開設されている。-


このような歴史が根底に有るからか、今回の旅行で、ポーランドやバルト3国の人々の日本人への接し方にとても温かさを感じることがたびたびありました。


ポーランドのワルシャワ旧市街を散策していた時、私の家内の側に一人の老婦人が、スーッと寄ってきて、「あなたはベトナム人ですか? それともコーリアですか?」 と 聞いてきたことがありました。 

「ヤーパン」 と答えると、家内の手をじっと握りしめ、頭を下げ 「感謝しています!」 と言った意味のことをつぶやき、家族の元へと去っていきました。

急のことで、最初は何のことか分からず、思わず身構えてしまいましたが、状況が理解できると、「きっと、過去に助けられた家族がいたのだろう」 と、胸が熱くなりました。

直接 「日本人ですか?」 と聞かなかったことも、何となく分かる気がしました。


私も、ワルシャワ大学の前で、中年の男性に 「日本人ですか?」 と聞かれ、「そうです」 と答えたところ、その男性は、何も言わずにとても親しそうなまなざしで見つめたまま去っていったことがありました。


現在記念館となっている旧日本領事館内の 再現された執務室


リトアニア語と日本語で ”希望の門 命のビザ” と記された旧日本領事館の門柱


旧日本領事館の全景 ・・・ ユダヤ人の人垣が出来たといわれる旧領事館前の道路。

                   彼を記念して植えられた桜の木が紅葉していた。






さて7日目からはいよいよ今回最後の訪問国 ポーランド!


ポーランドは、いろいろお話しすることが沢山ありそうなので、次回改めてお伝えすることにしましょう。


ではまた  再見!!