『趣味と実用 鴿の飼い方』(武知彦栄。内外出版)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

本家→「知識の殿堂」 http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/

■軍用鳩の本を読む5『趣味と実用 鴿の飼い方』(武知彦栄。内外出版)

 毎回、軍用鳩に関する本を取り上げて、気になった記述をメモしてゆく。
 今回は、武知彦栄大尉の『趣味と実用 鴿の飼い方』
 ウラジオストック駐在時に健康を害した武知彦栄は、軍を退いて個人商店をはじめる(予備役)。本書は、その店番のさなか、暇を見て書かれたものである。
 『趣味と実用 鴿の飼い方』は、武知彦栄が出した3冊目の著作であり、これが彼の最後の単行本となる。

 

 
***


・巻頭(ページ数なし)

 拙著「軍鳩」並に「伝書鳩の研究」第一章伝書鳩の歴史の項に於て我陸軍では明治三十二年から伝書鴿を軍用の目的で飼育し始めた様に記述して置きましたが其の後の調査に於て明治二十二年支那から伝書鴿数十羽を輸入して陸軍工兵会議で研究を開始した事実が確められましたから訂正致して置きます。茲に掲ぐる所の題字を寄せられた石川潔太閣下は実に陸軍部内に於ける伝書鴿研究の先駆者でありまして閣下は駐在武官として清国北京に滞在中(自明治十八年至る同二十二年)伝書鴿術に興味を持ち之を実地に研究し明治二十二年帰朝の際伝書鴿数十羽を携帯して帰り我が陸軍部内に伝書鴿術を伝へられたのでありました。

↑武知彦栄の著書が引用されるときは、大抵、『伝書鳩の研究』止まりで、この『趣味と実用 鴿の飼い方』を引用者が読んでいないことが多い。そのために、武知彦栄が「陸軍の鳩はじめ」について、正しくは明治22年と訂正している事実がほとんど知られていない。
 参考までに、以前に私が記した一文を、以下に再掲する――■軍用鳩の本を読む1『軍鳩』(武知彦栄。横須賀海軍航空隊)より

***

 ただし、「1889年(明治22年)説」は、陸軍工兵会議を通した「組織的な」鳩研究であって、そもそもの鳩飼養の提唱者――石川潔太中尉(最終階級・陸軍少将)は、すでに1885年(明治18年)から、「個人的に」鳩研究をはじめている。
 どうしたことか、大方の史料は、武知彦栄が述べる「1889年(明治22年)説」よりも2年早い、「1887年(明治20年)説」を採用していて、陸軍の「鳩はじめ」を「明治20年(1887年)」もしくは「明治20年頃(1887年頃)」と記述している。
 この2年間のズレは何なのか、その理由は判然としないが、陸軍工兵会議の史料を調べてみると、武知彦栄の言うとおり、「1889年(明治22年)説」が正しいように思われる。最近の研究(軍事史学会『軍事史学』〔186号〕所載――柳沢 潤「日本陸軍における初期の伝書鳩導入」)にあっても、「1889年(明治22年)説」が採用されている。
 しかし、日本軍における「本格的な」鳩飼育&研究は、大正8年のクレルカン中尉らの招聘(しょうへい)を嚆矢(こうし)とする。
 したがって、「実質的」には、「1919年(大正8年)説」が陸軍の「鳩はじめ」といってよい。


・9~10ページ(クレルカン中尉への手紙)

私が嘗て千九百廿一年(大正十年)七月中旬に連続三日間、八丈島から海底電線に故障があつた時、伝書鳩を使つて中央気象台(在東京)宛に気象通報を送り三時二十分の記録を作つた時に、当時の人々は非常に不思議がつて居ました。「昔から歌にもある、鳥も通はぬ八丈ケ島から鴿が手紙を持つて来たなんてそりや本当か」などと云つたものでした。


・10~11ページ(クレルカン中尉への手紙)

 私は世界戦争中、南洋勤務中に毀した健康を再び西伯利亜(浦塩斯徳)勤務中に害ひ其の後健康状態が如何も面白くなかつたのでしたが到当千九百二十一年(大正十年)九月に病気再発して三度び療養の為め職務を離れ引き入れたのでありました。其後病気が果々敷くないので、遂に今年の二月二十五日予備役に編入して戴いたのでありました。此の様な状態でありました為に、私は先生から受けました御恩の万分の一もお報いする事が出来ないのを非常に残念に存じて居ります。併し私が病気引き入れの際執筆して海軍兵員の為に書き、先生にも一部を進上致しました彼の「軍鳩」は、正しくして真面目なる鴿の飼ひ方並に使ひ方、乃ちクレルカン式の鴿術を日本に弘め一人でも余分に真面目な鴿術研究者を殖さんが為に其後海軍省の許可を得まして「伝書鳩の研究」と改題し、内容も相当の増補を為して改版し、出版の印税より得ました所得全部を書物に換へ、之を民間の好事家に無代価で配布したのでありました。

↑武知彦栄が健康を害して予備役に退いたことや、『伝書鳩の研究』の印税を全て同書の購入に当てて、それを民間に配布したことを記している。


・12~13ページ(クレルカン中尉への手紙)

 船の上で伝書鳩を使ふ事は嘗て私から先生に申上て置きました通りの計画を進めて行きまして着々成功して「飛行機からの通信を鴿に託し之を航空母艦に届ける事が出来る様になりました」此の計画の実施に移ると間も無く千九百二十一年(大正十年)九月八日、私は病気の為に引き入れたのでありまして、計画者の私が居なかつた為に実施者の鈴木一等水兵は何かにつけて非常なる不便に出遭ふたのでありましたが、彼は万難を排して奮励努力し遂に完成したのでありました。彼(鈴木)は千九百二十一年五月十四日に、十六羽の児鳩と、小さな鳩舎一棟と、私から与へた簡単な訓令とを受取つて航空母艦に乗組むだのでありました。そして翌年五月三日には遭難飛行機より鴿に託した救助を求むる手紙が航空母艦に届き、然も丁度間に合つたので、母艦の乗員一同が今更の様に驚きもし感謝もしたのでありました。此は海上鴿術のホンの序幕であつて、真の面白味は此から先にあるのでありますから、私の後任者は斬新なる計画を樹てゝ更に局面を展開せんと試みつゝあるのであります。上述の鈴木と云ふ男は、先生もよく御承知の筈の鈴木兼吉の事でありまして、其後彼は抜擢せられて海軍一等兵曹に昇進し、今も引き続き横須賀海軍航空隊に勤務して居ります。


・14~15ページ(クレルカン中尉への手紙)

 瞬間にして、横須賀横浜東京、の三大都市を全滅させ百億円の富と十六万の生霊とを奪つた昨年九月一日のあの大地震の時横須賀に於て山崩れの為に生埋にせられた私は、幸運にも二時間許りの後に掘り出されて、今日の大震災一周年忌に、今は亡き人々の冥福を祈つて居ります。其の際焼けたり散らばつたりして、すつかり失つてしまつた私の苦辛の結果に成る、鴿の研究資料と、其の論文などは命と時間とさへあれば復集める事も出来ます。


・1~4ページ

 昔、羅馬人はThe Forum(市民会議所兼法廷)に集り政治を談じる時にさへも自家に飼育する鴿の自慢を為ることを忘れなかつたのでありました。これ鴿を飼育する事は甚だ趣味深きものである事の一例ではありませぬか。またSolomon王は好むで若き鴿の肉を食ひ神様にも之を供へました。これ雛鴿の肉は美味にして滋養に富むが為であります。詩に曰く、
“Four and twenty White squabs Baked in a pie. When the pie was Opend, The Squabs began to Sing, ‘Is'nt this a dainty dish To set befor the King?’”
『正当に料理せられたる「嘴詰」(生後四週間位の雛鴿)は地上に在る最も美味なるものであります』
 波斯の伝書鳩は数世紀前バビロンとアレツポ間(徒歩三十日行程)を四十八時間で飛翔し英国の伝書鳩は西紀千九百十三年(大正二年)羅馬より英国に至る一千〇〇一哩の距離より帰来し、また米国の一伝書鴿は千九百二十一年(大正十年)夏十六時間に六百十四哩半を突破し、シカゴ市長トムソン氏の信書を大統領ハーデイング氏に伝送したのでありました。伝書鴿の此不可思議なる帰巣行為は、遠く神代の昔から天地の間に公開せられて居る一つの現象でありますが未だに之を的確に解説した人が無く、依然として神秘的現象の境域内に置かれて居るのであります。併し伝書鴿の帰巣行為が神秘的現象の境域内に在ると云ふ事が好事家には無限の趣味を与へるのであります。昔バビロニヤ王国では伝書鴿を駅伝的に使用し全国内に鴿通信網を張り、羅馬軍は欧羅巴に侵入した時、出征地と羅馬市との間の連絡に伝書鴿を飛ばし、普仏戦争の時巴里の籠城軍は延数三百六十羽の伝書鴿を使用して十重二十重に取り囲むだ独逸軍の頭上を飛び越えて百十五万余通の信書を運搬致させました。今度の世界大戦中には、敵も味方も盛んに伝書鴿を活用致しましたが、就中独逸軍が伝書鴿の首に極小さい写真機を懸けて飛ばし敵の陣地を撮影させた事や、仏蘭西軍が動鴿舎(鴿車)を案出し伝書鴿を戦場第一線の通信用に当て、また夜間の通信にまでも伝書鴿を使用した事等は、之を見たり聞いたりした誰でもが驚かされたのでありました。更に最も手近で吾人の記憶に新らしい一例は、昨大正十二年人間の歴史には未だ嘗て類例が無い程の破滅が横浜横須賀東京の三大都市に猛威を振つた彼の九月一日の大震災中に、日光の御用邸から、両陛下御無事の報を東京市民に伝へたり、東京市外と市内との連絡を引き受けて飛び回つた伝書鴿のあの活躍振りでせう。


・5~6ページ

鳩字と鴿字とを書き分ける事は一見無用の感じがせぬでもありませぬが、私は前者をヤマバト(Dove)後者をイヘバト(Pigeon)と読み、両種を区別する意味に於て併用し度いと思ひます。
鳩と鴿とは大分性質が異つて居ります。例へば、鳩は樹上の枝に巣を作りますが、鴿は岩の割れ目や建築物の軒や屋根裏に営巣致します。そして鳩の子は育てゝも大きくなれば山に帰りますが、鴿は飼主の家の付近から飛び去らぬのが原則になつて居ります。
 此の呼称区別に就て茲に唯一つの例外があります。それは米国の野生鳩 Passenger Pigeon でありまして、此鳥屢旅行鳩と訳された為に伝書鴿と混同された事がありますけれども伝書鴿とは全く習性を異にする『ヤマバト』であります。此鳥は樹上に営巣し頭が小さく脚は短かく全然羽毛なく尾羽は長くて先鋭であつたのでありましたが、西紀千九百十四年夏(大正三年)オハヨー州シンシナチ市の動物園で死んだ雌鳩を最後の一羽として此地上から絶滅したのであります。此鳥は西紀一八三五年(天保六年)頃より同一八五五年(安政二年)頃まで米国に於て無数に繁殖して彼等の大群が通過する時は黒雲が空に広がつた時の様に日光を遮り其等の打ち交す羽音は遠雷の轟く如くであつたそして其の大群が地上に下り来れば瞬間にして畑の小麦を食ひ荒し万頃の畦為に空しと云ふ光影を現出し森に下れば樹の枝を踏み折る程群集し農民に大損害を与へたと云ふ事です


・15~17ページ

雌雄識別法

1 最良の方法は鴿の挙動に注意することです。殊に発情期に於ける鴿の挙動には雌雄間に画然たる差異があります。

2 雄鴿は概して雌鴿よりも大きく逞しいが雌鴿は小柄で何処となくほつそりした姿を持つて居る(口絵参照)

3 雄鴿の頭は円味が強く頸は太く粗造であるが雌鴿の頭は概して軽度の凹みがあり頸は細く優美である。

4 雄鴿の目には大胆の気宇と反抗心の閃きがあり、雌鴿の目は何処までも従順を表示して居る。

5 成長した雌鴿の骨盤は開いて居るが雄鴿の骨盤は比較的狭い。之雌鴿は産卵をする関係から其の骨盤が開いて居るのである。

6 雄鴿の竜骨突起(胸峰)は雌鴿のものに比較して長いのが常である。

7 外貌検査に於て雌雄を識別し難き鴿あらば鴿を籠に入れ二三間離れた位置から監査すると雄鴿には雄らしき雌鴿には雌らしき何等かの標徴があるものです。著者は大抵此の方法で識別して居ります。

8 また他の一方法として性別不明の鴿を精力旺盛なる雄鴿と共に配合籠の中に閉じ込めると雌雄を完全に判別する事が出来ます。

9 死体となつた鴿であれば之を解剖すれば間違なく雌雄の別を監査することが出来る。

10 まだ巣立ちせぬ雛時代には雄雛は雌雛よりも意地悪るであつて人が近づき手を差し伸べると羽を逆立たせ嘴をクワツ〳〵鳴らして反抗的態度を取りますが雌雛は其の反抗的態度が著しく柔和であります。
此の他に色々と雌雄相違の点が無いではありませぬけれども少しく注意深く経験を積むで行けば鴿の雌雄識別は自然に会得出来て鴿を一見すれば此れは牡だ此れは牝だと直覚的に識別し得る様になるものでありますから理屈つぽい識別法はこれ位で止めにして後は読者諸君の御研究に譲ります。

↑ほかに、鳩の肛門――総排出腔(そうはいしゅつこう)で雌雄を判断する方法がある(岩田 巖騎兵少佐『伝書鳩』参照)


・18ページ

 陸軍々用鳩調査所の研究によれば伝書鳩は孵化後百二十日を経れば雌鳩には鼻瘤の中央に縦に白い肉線が現はれるが雄鳩には其の事が無い。但し其の的中率は先づ九割位であつて残りの一割には雄にも此の肉線が現はれるものがあると云ふ。


・132~133ページ

 重複通信と云ふのは第二回目に出発させる鴿に託すべき第二信の末尾に第一信の要領を付記した手紙を託して出発させる事であります。此の方法は鴿の数を節約すると同時に通信の確実性を増加する事が出来ますから、世界大戦中欧羅巴の戦場では五重通信制などが採用せられたのでありました。世界大戦中の鴿通信の確実性が常に九〇%以上殆んど一〇〇%に近き好成績を収めたと云ふのは、勿論鴿の能力範囲内に於て之を使用した事柄に原因したのではあるけれども、斯くの如き好成績は他の一面から見て全く此の重複通信の賜物であつたと云つても過言でないのであります。


・145ページ

 夜間鴿通信を創めて実施したものは仏蘭西人でありまして、彼の世界大戦中西紀千九百十八年(大正七年)九月十三日真の闇夜に四十粁(十里)の地点から鴿を使ひ五十五分時間で通信の目的を達し得て世界の人を驚嘆させたのでありました

↑フランスは鳩先進国。


・146ページ

近頃花柳界では伝書鳩の絵をお守り袋や弗入に入れて置く事がボツ〳〵流行し始めたそうです。それは云ふ迄も無くお客が河岸を変へて遊ばない様にと云ふ願望からなのです。


・168~169ページ

伝書鴿の標準体型

 伝書鴿は其の性質上次に掲ぐる如き諸性能を具備せなければなりませぬ。

1、よく己が棲家(鴿舎)に帰つて来る事。
 此の条件を満足する為には鴿は鋭敏なる感覚の持ち主で記憶力に富み然も古巣を慕ふ性質が強烈で帰巣せんが為に絶大なる努力を惜まぬ鳥でなくてはなりませぬ。

2、体質頑健なる事。
 弱い鳥であつては飼育が困難である許りでなく伝書鴿としての任務が勤まりませぬ。

3、速く飛びもすれば長続きもする乃ち強大なる飛翔力の持ち主である事。

4、戻つて来れば直ぐ鴿舎に入る事。

5、羽毛は羽小枝の数多く膏質に富み翼は特に其の質靱強でなくてはならぬ

6、体躯は各部の比例適当に発達し所謂釣合の好き身体と姿勢の持ち主である事。

7、形態の優美なる事。