『改訂完全版 占星術殺人事件』(島田荘司。講談社)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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 人が私を狂人と看做しているのは、誰より私自身が知っている。私は他人と違っているかも知れないが、芸術家ならそれは当然のことだ。他人と異なった部分が、大抵は才能と呼ばれる部分なのである。以前に誰かが創った物と大して変らぬ物をまた作ったとしても、どうしてそれを芸術と呼ぶ事が出来よう。反抗の中にしか創造はないのである。


・141ページ

 埋められている場合、雨だって降るから、早期発見のチャンスを逃すと痕跡が消えて、えらく時間がかかるんだよね。過去日本の死体を埋めた事件で、死体が出ているのはみんな犯人の自白のためなんだ。


・146ページ

死体が一年もたつと、法医学者によって死後一年になったり三年になったりまちまちなんだそうだね。長く言う癖のある人とか、短く言う癖のある人とか、死体の置かれていた状態によって腐敗度も違うしね。たとえば夏に殺して綿入れのちゃんちゃんこを着せておいたら、死亡推定日時が半年ばかり延びたという話もあるそうだよ。


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 今ベーカー街に住むイギリス人は、ホームズと変わらない家に住み、同じような家具に囲まれている。しかし日本人の場合はそうはいかない。日本人の住様式は、明治以降めまぐるしく変った。伝統が生まれてくるひまもない。百年前これも、もともと日本のものではなかった。
 そして現在の選択ははたして正しいのか? モルタルの壁とブロック塀、考えられる限り面白みを押し殺した窓、日本人はまるで生涯を墓石の色の中で送る決心を固めたようだ。

↑俺は10代の頃から、この日本人の蛮行を苦々しく思っている。
 正確な引用ではないが――坂口安吾なんかが、
「そういう節操のない姿こそが日本人である、うんぬん」
 と、のたまっているのも、好ましく思っていない。
 文化や伝統を守ったり、親しんだりすることよりも、利便性ばかりを追い求めた先に、何があるというのだ?
 俺としては、ここから、「現代の孤独」が、はじまっていると思っている。
 まさに、俺のような、文化も伝統も背負っておらず――厳密な意味において、いかなる集団にも属していない、ただの一個人は、飯を食って眠るだけのケモノでしかない。
 日本人の服を着ず、日本人の住居に住まず、日本人の食事をせず、日本人の考え方をせず、日本人の何たるかも分かっていない俺は、何者なのか?
 「モルタル・ブロック塀ニンゲン」という「アイデンティティー?」――それしかない。