・45ページ
部屋に人を集めて、車のコマーシャルを見せて、その車についてどう思うかと聞けば、明快な答を得るだろう。「その車は好きじゃない」と一人の男性が答えたとする。よくわかりました。でも、どうしてですか? その男性は眉間にしわを寄せる。「ウーン、前の部分のスタイルが見苦しい。それにもっと強力なエンジンが欲しい」。これは、良い洞察、つまり、自社製品をデザインして市場に出そうとする会社が使うのにぴったりのもののように見える。しかしそうではない。この男性の即座の判断――「私はこの車が好きじゃない」――は「腹」から出てきた。しかし、インタビューアーは「頭」に話しかけている。そして「頭」は、どうして「腹」がその車を好まないかについての手がかりを持っていない。そこで「頭」は理屈をつける。「頭」は「腹」の出した結論に着目し、もっともらしいだけでなく、間違っている可能性が非常に高い説明をでっち上げる。
↑好き・嫌い、良い・悪い、といった感情の一部分について、理屈をつけることは可能だろう。しかし、その全てを理屈で語ることはできない。
感情は、言語化できないからだ。しかし、そうだというのに、われわれは言語でコミュニケーションを取っているが故に、それが無理だと分かっていても、そうした無理をやってしまう(デッチ上げ)。そして、その無理をしていることも、よく忘れる。
ちなみに、俺の好きな色は青なのだが、
「どうして、その色が好きなんですか?」
と、人に問われても、とまどってしまう。
答えられない質問だからだ。
しかし、俺は、持ち前のサービス精神を発揮して、聞き手はおろか、自分自身さえも、こんな理屈でやり込める。
「多分、青の持つ、清涼感とか、常に冷静でありたい、という無意識の願望が働いているのではないでしょうか」
そんなわけ、ないのに!
俺は単に青色が好きなだけなのだ。
理由はない。
ただ、好きなだけなのである。
心の領域に理屈をつけようとすると、途端にうそが混じる。
・147ページ
イスラエルの飛行指導員が個人的体験に基づき、批判は成績を上げ、賞賛は成績を下げると結論を下していることを見出した。どのようにしてこのおかしな結論にたどり着いたのだろう? 訓練生が特に良い着地をしたとき、彼は賞賛した。すると、次の着地はたいてい前ほど良くなかった。しかし、訓練生が特に悪い着地をしたときに批判すると、次の着地は良くなった。そういう訳で、批判は訳に立つが賞賛は役に立たないと結論を下したのだ。理解力に優れ、教育も受けているこの男性が考慮していなかったことは「平均への回帰」であるとカーネマンは述べている。つまり、通常でない結果が生じると、その次は統計上の平均により近い結果になりやすいということである。したがって、特に良い着地の次は前ほど良くない着地になりやすく、特に悪い着地は次には改善されることになりやすい。批判と賞賛はこの変化と無関係である。これはまさに数の問題である。しかし、私たちは平均への回帰に関する直感を持ち合わせていないので、この種の間違いに気づくには大変な精神的努力を要する。
・209ページ
H・L・メンケンはかつて次のように書いた。「実際的な政治の全目的は、すべて想像上の産物である、つぎつぎ現われる幽霊のようなもので大衆を脅すことによって、大衆を不安にさせておく(その結果、騒ぎ立てさせ、安全な状態に導かれるようにする)ことである」
↑不安にさせたり、脅かしたりして、常に大衆をあおる。恐怖こそが、人間の感情に最も訴えるからだ。
恐怖心の利用にたけた者が、政治や商売で成功する。
・210ページ
人は自分が基本的に善い存在だと考えたがる。したがって、自己の利益を増やすために他人の恐怖を助長していることを認めると、認識に不快な不調和が生じる。つまり、自分が基本的に好ましい人物であることはわかっているという考えと、自分がしていることはひどいことで、間違ったことだという考えの不調和である。同じ頭に居心地よく納まる二つの考えではないため、正当化して解決をはかる。つまり、我が社の家庭用警報機を買わなければ、郊外の主婦は現実にリスクに曝されたままであり、そのことを伝えることによって、役に立つことをしているのだという具合に。自己の利益と誠実な信念が袂を分かつことはめったにない。
↑セールスマンの思考がそうだ。
彼は、自分が担当している商品を、素晴らしいものだと思っている(思い込んでいる)
自分や自分の所属する会社よりも、むしろ、この商品を買うことができるあなたの方が得をする、なんてことまで口にする。
自分と客をだますウソがつける者――それがセールスマンである。
セールスをする、ということに、何となく拒否感を覚える人が多いのは、そうした、セールスマン特有の考え方に疑問を感じてしまうことが関係しているのかもしれない。しかし、だからといって、セールスを侮ってはならない。誰かが、セールスをしないといけないからだ。セールスのない商売なんて、あり得ない。世の中、きれいごとばかりでは、やっていけない。
こんなことを言うと、誰かに怒られそうなのだが――セールスというのは、賭博や売春のような必要悪なのではないか。
・362~363ページ
飲料水を塩素で処理すれば、副産物ができる。その副産物は、大量投与によって実験動物に癌を引き起こすことが示されており、塩素で処理した水を飲む人が癌になるリスクを高める可能性がある。こういったリスクが仮説以上のものであることを示唆する疫学的証拠すら存在する。したがって、予防原則は、飲料水に塩素を入れるのをやめるように提案するだろう。しかし、飲料水に塩素を入れるのをやめると、何が起きるだろう? 「南米で実施されたように、飲料水から塩素を取り除くと、二〇〇〇症例のコレラが蔓延するだろう」とダニエル・クルースキは言っている。そして、コレラが唯一の脅威というわけではない。水が媒介する多くの病気があり、その中の一つ腸チフスは、飲料水への塩素添加によって二〇世紀初頭に先進国でほぼ一掃されるまで、ありふれた死因だった。したがって、おそらく、予防原則は飲料水を塩素で処理しなければならないと言うだろう。「リスクはすべての側面に存在するから『予防原則』は、行動を取ることと取らないこと、その中間のすべてのことを禁じる」とサンスタインは書いている。予防原則は「身動きの取れない状態にする。つまり、予防原則は必要としている措置そのものを禁じる」。
そうすると、合成化学物質の影響を完全に理解するまで、その使用を禁止あるいは制限すべきだろうか? この魅力的なほどわかりやすい考えは、見かけ以上にずっと複雑なものである。殺虫剤の使用が禁止されると、農業の生産量は減少するだろう。果実と野菜は値段が高くなって、買って食べる量が少なくなるだろう。しかし、癌の研究者は、果実と野菜を十分に食べれば癌のリスクを低減できると考えており、ほとんどの人が今でさえ十分に食べていない。したがって、発癌物質への暴露を低減するために殺虫剤の使用を禁止すると、より多くの人が癌になる可能性がある。
・475ページ
未来に目を向け、恐ろしいことが起きると想像するのとまったく同じように、素晴らしい変化を考え出すこともできる。マラリアとエイズのワクチンは何億人もの命を救うかもしれない。遺伝子組換え作物は世界の人人に大量の安い食物をもたらすかもしれない。超効率的な代替エネルギーによって化石燃料が不要となり、気候変動が根本的に緩和されるかもしれない。これらが組み合わさって、前代未聞の黄金時代が到来するかもしれない。こういったことは、大惨事論者のもっととっぴなシナリオと同じくらい起きやすいのである。