『服従』(ミシェル・ウエルベック 著、大塚 桃 訳。河出書房新社)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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■感想――もしもフランスがイスラム国家になったら

 近未来のフランスを舞台にしたSF小説(SF小説といって、差し支えないと思う)
 フランスの大統領を決める決戦投票において、極右政党とイスラム政党の2つが残る。そのどちらかを選ばないと、フランスは国を2分する内戦になってしまう。結局、フランス国民は、イスラム政党の代表を選ぶ。
 フランスの伝統・文化は尊重されつつも、イスラムの流儀に染め上げられていく日常の変化を、大学教授の主人公の目を通して描かれる。
 フランス人がイスラム教に改宗したり、その影響によって一夫多妻制が導入されたり、潤沢なオイルマネーの流入によって大学教授の給料が3倍に跳ね上がったり、と、驚くような展開が次々に起こる。しかし、それでいて、リアリティーがあるので、妙に納得してしまう。
 テロリズムだけが悪目立ちしているとはいえ、昨今、イスラムの思想が世界に与えているインパクトは大きい。そして、テロとのつながりを思わせる移民問題において(安直に、移民とテロを結びつけるのは好ましくないが)、悩めるヨーロッパ各国は、極右政党の躍進という、さらに悩ましい事態に陥っている。また、イギリスが欧州連合から離脱したことによって、ヨーロッパ統一の夢は、ほぼ打ち砕かれた。これがアメリカにあっても、ドナルド・トランプのような、指導者にふさわしくない男が大統領になってしまった。
 この不穏な世界情勢を鑑みると、この小説の内容は、決して絵空事ではない。あり得る未来の一つ、といえる。
 俺としては、家庭の崩壊や個人の孤独などが、イスラムによる世界の統合によって解決するのではないか、と思えたことが刺激になった。
 俺が誤読していなければ、劇中に描かれている結婚は、恋愛結婚を否定している。
 いつも汚らしい格好をしている、ある老年の大学教授が出てくるのだが、彼は主人公から、童貞のまま死んでもおかしくない、と思われている。しかし、そんな変わり者の教授が、イスラム教を通じて結婚することができる。
 恋愛などというプロセスを経ずに、社会的な地位にふさわしい伴侶を得ることは、少し前の世界では当たり前のことだった。しかし、現代では因習になってしまった。
 男が女に対して、
「好きだ」
 という言葉を発しなければならない「恋愛押しつけ社会」に、なぜか納得できない、俺のような男は、本書を読んでいて、イスラムの教えこそ、真理なのではないか、と、ちょっと思った。
 俺はどうしても恋愛になじめない。
 恋愛って何なのだろう。
 本気で俺には分からない。
 もちろん、俺は、孤高のやからなので、相手が女である以前に、人間を好ましく思っていないという問題もある――現に俺には家族もなければ友達もない。しかし、それにしたって、20歳を過ぎた立派な男が、女を相手に、好きだの愛しているだの、と口にするのは、俺にとっては下ネタを発するよりも見苦しく、恥ずかしいことのように思える。
 街中で、男女が手をつないで歩いていたり、周囲をはばからずにカップルがキスしていたりするのを目にするだけで胸くそが悪くなる。
 日本の文化ではない、という、拒否感を覚えるのだ。
 男が女に対して、私的な感情を直裁に伝えるのが好きじゃない。
 平安時代のように歌にしろ、とまでは言わないが、もっと品のあるやり方にしてもらえないだろうか。しかし、そうした現代風のスタンダートは確立されていないので、結局、前述したような西洋風、いや、イタリアのナンパ師風の下品なやり方を無条件で強要されることとなる。それが「男らしい」というのだ。どうかしている。明治時代の男をここに連れてきてほしい。彼は間違いなく、俺と同じように思うはずだ(当たり前のことだけど)
 逆に、どこかの寒村で、男女が乱行にふけるような「祭り」があったとしたら、それはそれで、日本の文化に沿っているので、俺としては、全く恥ずかしくないし、見苦しいとも思わない。夜ばいに通ずる、「整然とした性行為」だ。
 外見を着飾って格好をつけ、歯が浮くようなせりふを発しなければならない、恋愛とやらの不自然さ、おぞましさを、俺は心底、憎む。
 人間は本能が壊れている、というが、本当にそう思う。人間は社交性ばかりを発展させてしまったことによって、恋愛に限らず、社会の隅々に奇妙なルールが行き渡っている。人間は動物であることを放棄しているのではないか。しかも、そのルールは普遍的ではなく、そのときどきによって、変わっていくのだ。決して、真理ではないのである。少し前の作法――たとえば、お侍さんが腹を切る、とか、生まれた家の格式によって順序づけられる、とか、昔はそういうものがあって、かつては皆、それに従っていたのに、現代では古くさい慣習として退けられている。俺が今、現代における恋愛のやり方に、嫌気が指しているのも、そろそろ、制度にガタがきているからではないか。未来から見たら、今、俺が恋愛に不信感を持っていることは、まっとうな見方になるのではないか。未来の恋愛は、今とは全然異なる様相になっているのではないか(もしくは恋愛そのものの消滅)。そういう風に思えるのだ。
 さて、俺としては、生まれる時代を間違えたとしか思えない(過去は常に栄光に包まれ、未来は常に輝かしい)。結婚も仕事も人間関係も、あらゆる点において、俺は現代に溶け込めていない。
 この小説の中に出てくるフランス人は、無論、俺とは関係のない、異なる苦しみにもだえているのだが、現在に不安を覚えている点は共通している。
 そうした状況を踏まえて、極右政党が躍進したり、イスラムの教えがフランス全土を覆ったりする、というストーリーは、一つの思考実験として面白い。フランスだけに限定されない、現代の在りように対する、強烈な揺さぶりを、この小説は与えてくれる。

***

・音楽や絵画も、文学と同じく、感嘆の思いや世界に向けられた新たな視線を生み出す。しかし、ただ文学だけが、他の人間の魂と触れ合えたという感覚を与えてくれる。その魂の全て、その弱さと栄光、その限界、矮小(わいしょう)さ、固定観念や信念。魂が感動し、関心を抱き、興奮しまたは嫌悪を催した全てのものとともに。文学だけが、死者の魂ともっとも完全な、直接的でかつ深淵(しんえん)なコンタクトを許してくれる。そしてそれは、友人との会話においてもあり得ない性質のもので、友情がどれだけ深く長続きするものであっても、現実の会話の中では、真っさらな紙を前にして見知らぬ差出人に語りかけるように余すところなく自分をさらけ出すことはないのだ。

↑共感する。音楽や絵画から、作者の気持ちをくみ取るのは、よほどの感性の持ち主でなければ難しい。しかし、文学であれば、作者の気持ちを容易にくみ取ることができる。『論語』のように、本人が書いていなくとも、孔子がそのとき、何を思ったのか、よく分かる。そして、文章を書く、という行為は、自らをさらけ出すことである、という指摘も正しい。そのために手紙というものがある。


・周知のことだが、大学の文学研究は、おおよそどこにも人を導かず、せいぜい、もっとも秀でた学生が大学の文学部で教職に就けるくらいである。それは明らかに滑稽な状況で、突き詰めると自己再生産以外の目的を持たず、有り体に言えば、学生の95パーセント以上を役立たずに仕立て上げる機能を果たすだけの制度なのだ。


・ぼくは若者が好きではなかった。連中を好きだったことは一度もなかったし、自分が若者と呼ばれる年代だったときだってそうだったのだ。

↑共感する。俺も若者を好ましく思っていなかった。特に渋谷や原宿辺りにいる連中に対して。そして、俺は常に若者じゃなかった。はなから老成していた、とまでは言わないが、若いときから年寄りくさかった。世間一般でいう、若者がする行為を、ほとんどしてこなかった。明確な意志を持って、ありきたりの若者文化を拒否していたのだ。


・事実を見るにつけ、中道左派はトロイア市民の盲目を模倣しているだけとも思える。このような盲目は歴史的には新しくはない。同様の事例は、「ヒトラーは最終的には理性に立ち返るだろう」とそろって思い込んでいた1930年代の知識人や政治家、ジャーナリストたちにも見られた。

↑「ドナルド・トランプは最終的には理性に立ち返るだろう」と思っているやからに聞かせたい。
 ヤバイやつは、どこまでいってもヤバイ。
 それが真実だ。
 その点において、ポピュリズムに堕したアメリカ人は、必ずツケを支払うことになる。


・宗教を信じることには人生の選択をする上で有利な点がある。啓典の民であると自覚し、家父長制を尊重しているカップルは、無神論者や不可知論者のカップルよりも子供を多く作る。女性の教育程度は低く、快楽主義や個人主義をそれほど追求しない。また、宗教は広い意味で言えば遺伝のように次世代に伝えられる特徴がある。改宗や家族の価値の拒否には副次的な重要性しかない。人々は、ほとんどの場合が、自分が育てられた価値判断のシステムに忠実であり続ける。無神論者の人間中心主義と、それに立脚する、世俗主義の『ともに生きる』という思想は、短命を運命づけられている。人口における一神教徒のパーセンテージは急速に増加するだろうし、イスラム教の人口は特にそうだろう。この現象を加速する移民を考慮に入れるまでもない。ヨーロッパのアイデンティティーに根拠を置く者たちは、イスラム教徒とその他の人々が、遅かれ早かれ必然的に内戦を引き起こすという予測をすでに受け入れている。彼らは、もしもこの戦争に勝ちたければ、戦争を早いうちに起こす方がいい――仮説としては2050年以前、できればもっと早く――と結論づけている。

↑少子化問題の解決策の一つとして、イスラム教に改宗する、という手もあり得る。
 何を言っているんだ、と思うかもしれない。
 しかし、それくらい、頭が柔らかくないと、一家言ある人間になれない。


・イスラム勢力の介入によって、公的予算は削減され、国民教育省の予算は3分の1になる。教員たちがどれだけ抗議したところで何も得ることはできない。それと同時に、私立のイスラム学校制度を作り、それは国立と同じ価値の証書を発行でき、スポンサーからの資金を集められるようにする。そうなれば、あっという間に、公立学校のレベルは下がり、子弟の将来を案じる親たちはイスラム系の学校に子供を入れることになる。
 ソルボンヌ大学は特に、信じられない点でイスラム同胞団に夢を見させているから、サウジアラビアは、ほぼ無制限に寄付をする。ソルボンヌ大学は世界でもっとも裕福な大学の一つになるだろう。

↑オイルマネーの力によって、小説世界のフランスはこんな風に変わっていく。


・ジハード主義運動家たちは道を誤ったサラフィー主義者で、宣教に信頼を置くよりは暴力に走る。
 サラフィー主義者にとっては、主権が民衆にあるという原則を持つフランスは冒瀆(ぼうとく)的な地、『異教徒の家』なのだ。

↑このイスラム過激派は、サラフィー・ジハード主義の信奉者である。彼らの活動が世界に脅威を与えているのだ。


・ハマスの異分子の一派が新しい一連の行動を仕掛けると決定したばかりで、ほとんど毎日、爆発物で飾り立てたカミカゼがレストランやバスなどで自爆テロをおこなっていた。

↑自爆テロ=カミカゼという理解の仕方を、日本人は嫌う。言わずもがな、特攻隊は敵の空母などの軍事目標に突っ込んでいったのであって、無辜(むこ)の民衆を殺戮(さつりく)したわけではないからだ。意味合いが全く異なる。特攻隊の勇士に対する侮辱に等しい。
 さっこんの嫌韓感情になぞらえて言うならば、同じ東洋人だからといって、日本人と韓国人を一緒くたにするようなもんだ。大抵の日本人は不快に思うだろう。
「日本人と韓国人は全然違う。あんな連中と一緒にするな」
 と。


・パスカル・ブルックナーは、恋愛結婚の失敗を当然とし、分別ある結婚に回帰すべきだと主張していた。ブルックナーと同様に、ダ・シルヴァによれば、家族のつながり、特に父と息子の絆は、いかなる場合にも愛に基づくのではなく、知性や技術、経営術などのさまざまな能力の継承、そして財産の相続に基づかねばならないのだった。彼の主張では、社会での労働が賃金労働に移行したことが家族の崩壊と社会での個人の孤立を招き、その再構築には、生産が職人や個人事業に回帰することが不可欠になる。反ロマン主義的なそういった論理は、しばしばスキャンダルを招いたが、ダ・シルヴァの著作以前には、そうしたロジックは、ジャーナリズムによって否定され忘却されていた。主要メディアに共通して残るコンセンサスは、個人の自由、愛の神秘の回りを常に回っていたからだ。ダ・シルヴァは溌剌(はつらつ)とした知性の持ち主で、鋭い論客でもあり、政治的、または宗教的なイデオロギーにはかなり無関心で、いつの場合も、自分が優れている分野、つまり、家族構成の発展の分析とそれが西欧社会の人口予測にもたらす結果にだけ、自分の主張を厳格に限定していた。

↑いつの日か、恋愛結婚が否定される日がやってくる――もちろん、その否定された先に、いいなずけやお見合いのような、過去のやり方に回帰するかどうかは別の話だ。そして、賃金労働によってもたらされた、家族の崩壊と個人の孤立についても、何か新しい制度を作り上げて改善しなければならない。
 誰もがそう思っているのに、今この瞬間も、伴侶を得ることなく、孤独死している人間(男も女も)が多数いる。それは年々増えていって、完全に集団から切り離された個人の最期として、見慣れた光景になっていく。
 俺自身、間違いなく、そうやって死んでいくように思う。
 誰にも気づかれずに亡くなって、腐りきった遺体にハエがたかっているような末路を迎えることだろう。
 俺は10代の頃から、そうした見苦しい終わりを覚悟していて、それを避けるためにも、いつの日か、自決しなければならない、と思っている。しかし、そのときの俺に、自決する勇気がわき上がってくるのかどうか、さっぱり自信がない。市に宛てて、ちゃんと遺書を書けるだろうか。


・僕は人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく、人類をさらに小さい枠に区切って、たとえばフランス人とか、かつての同僚などに限定したとしても、嫌な気分になるだけだった。

↑この小説の主人公は、大学教授という恵まれた地位にありながら、フランス人の孤独や混乱を体現している。そして、物語の最後、この大学教授はイスラム教に改宗する。一夫多妻制の魅力的な妻たちを迎える期待に胸を膨らませながら、小説の幕が下りるのだ。
 なかなかに衝撃的なラストシーンである。
 ユートピアなのかディストピアなのか……。
 深い余韻に俺は浸った。


・人間中心主義について

「そうでしょうか。僕は反対に、無神論は西欧には至るところに広まっていると思いますが」
「私に言わせれば、それはうわべだけのことです。私が出会った真の無神論者たちは、反逆の徒です。彼らは冷酷に神の不在を確認するには飽き足らず、その存在をバクーニン流(*注1)に拒否しているのです。『もし神が存在しているのだとすれば、追い払わなければならない』というように。もちろん、それはキリーロフ流(*注2)の無神論で、彼らが神を拒否したのは、人間をその代わりに据えようとしたからであり、彼らは人間中心主義、人間の自由や尊厳に高邁(こうまい)な思想を抱いていたのです。私が思うに、あなたはそのケースに含まれることはありませんね」
 それはそのとおりだった。人間中心主義という言葉を聞いただけで微(かす)かに吐き気を覚える。

*注1・ミハイル・バクーニン。1814~1876。ロシアの思想家、無政府主義者、革命家、無神論者。

*注2・ドストエフスキーの小説『悪霊』の登場人物で無神論者。


↑人間中心主義――ヒューマニズムと言っていいのか、人間を中心に考えることは、いいことのように一般に思われているけど、実はそうじゃない。
 人間を中心に据えるなんて、傲慢(ごうまん)もいいところ。
 東洋人であるわれわれは、西洋人のそうした欠点に気がつきやすい立場にあるのに、無条件に人間中心主義を受け入れてしまうことがある。
 自然の中に人間がいるんだ。
 人間が自然を征服していくような西洋人の発想には疑問符をつけるべきだ。


・宇宙の美は驚くべきものだ。その巨大さも人を呆然(ぼうぜん)とさせる。何千億の星からなる何千億もの星雲が存在し、その幾つかは何十億光年も離れているが、それはキロメートル単位では何千億に何十億をかけた膨大な距離となる。そして、十億光年のレベルで、ある秩序が構成される。星団が分かれ、複雑なグラフを作り上げる。これらの科学的な事実を、通りを歩く百人の人に無差別に聞いてみてほしい。どれだけの人が、それらは『偶然に』創られたのだと正面切って主張するだろうか。それに、宇宙は比較的若い。せいぜい、百五十億年にすぎない。有名な、タイプを打つ猿の論議がある。チンパンジーがタイプライターのキーを偶然にたたいて、シェークスピアの作品を再び書くにはどれだけかかるのか? 全くの偶然が再び宇宙を構築するにはどのくらいの時間がかかるのか? 確実に、百五十億年以上だろう! この見解をアイザック・ニュートンも信じていて、彼は晩年を聖書解読にささげている。アルバート・アインシュタインもまた、無神論者ではなかった。ニールス・ボーアに反論して、『神はさいころ遊びはしない』と言った。


・人間中心主義のおごり

「確かに、僕の無神論は確固とした土台の上にあるわけではありません。僕が無神論を標榜(ひょうぼう)するのは思い上がりというものでしょう」
「思い上がり、というのは正しい言葉ですね。無神論の人間中心主義の根本には傲慢(ごうまん)、途方もない慢心があります。それに、キリスト教でいう受肉の概念なんかもそうでしょう。神の子がイエスという人間の姿で現れるなんて。それならばシリウス星人やアンドロメダ星雲の住人に姿を変えてもよいのではないでしょうか」

↑単なる聖人として、イエス・キリストを扱えばよかったのに、神の子としちゃったから、イスラム教徒からすると、疑問を覚えるんだろうね。
 西洋人にありがちな、人間中心主義的な考えの大本を、このキリストの受肉に求めるのは、正しい見方だ。


・服従、について

「『O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それが全てを反転させる思想なのです。私はこの考えを私と同じ宗教を信じる人たちに言ったことはありませんでした。冒瀆(ぼうとく)的だと捉えられるだろうと思ったからですが、とにかく私にとっては、『O嬢の物語』に描かれているように、女性が男性に完全に服従することと、イスラムが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。お分かりですか。イスラムは世界を受け入れた。そして、世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがまま』受け入れるのです。仏教の見解では、世界は『苦』、すなわち不適当であり苦悩の世界です。キリスト教自身もこの点に関しては慎重です。悪魔は自分自身を『この世界の王子』だと表明しなかったでしょうか。イスラムにとっては、反対に神による創世は完全であり、それは完全な傑作なのです。コーランは、神を称(たた)える神秘主義的で偉大な詩そのものなのです。創造主への称賛と、その法への服従です。通常は、イスラムに近づきたいと思っている人にコーランを読むことは勧めません。もちろん、アラビア語を学ぶ努力をし、言語で堪能したいと考えているのならば別ですが。それよりも、コーランの章句の朗読を耳で聴き、それを繰り返し、その息づかいを感じることを勧めます。イスラムは儀式的な目的での翻訳を禁止したただ一つの宗教です。というのも、コーランはその全てがリズム、韻、リフレイン、半階音で成り立っているからです。コーランは、詩の基本になる思想、音と意味の統合が世界について語るという思想の上に存在しているのです」

↑本作の肝となるシーン。
 『O嬢の物語』を踏まえて、イスラムに全てを委ねる考え方を表明している。そして、そのイスラム教の核心であるコーランは、翻訳で読んでも意味がない、と断言している。コーランは詩なので、その朗読を耳にして、その息づかいを感じることが重要である、と。