『匣の中の失楽』(竹本健治。講談社)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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・歴史に残った最初の三劫(さんこう)は、織田信長の前でおこなわれた、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)と鹿塩利玄(かしおりげん)の対局だといわれている。そして、その夜半、この対局が催された本能寺において、織田信長は明智光秀の襲撃を受けて命を落とす。それ以来、三劫(さんこう)は不吉なものとされるようになった。

↑三劫(さんこう)は、将棋でいう千日手のような状態。


・中国の文字である「鬼」に、日本人は「おに」という読み方を当てた。そこから、日本と中国では語意の相違が生まれた。
 「おに」の語源としては、源順(みなもとのしたごう)が『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅしょう)という本の中で、「於邇者隠音之訛也」と述べている。鬼というものは物に隠れて形を顕(あらわ)すことを欲しないが故に、「隠(おん)」という言葉の「ん」が「に」に通じて「おに」となった、ということである。しかし、その漢音語源説に異議を唱えたのが折口信夫だ。彼は、「おに」は正確に「鬼」でなければならないという用語例がないところから、外来語説、漢音語源説に疑問符を与えて、全く新しい視点から、この「おに」という言葉を眺めた。古代において、「おに」と「かみ」とは、非常に近しい言葉であったということを提唱したのだ。彼の言うところによれば、「おに」という言葉は中国で生まれた「鬼」とは全く別の、日本独自の性格を持って存在していたということになる。彼の書いた『鬼の話』に、こうある。「おには「鬼」という漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になって了うたのである」


・仏教の影響から、凶悪な形相を鬼が持ちはじめる。仏教には、邏卒(らそつ)という概念があり、地獄卒とも呼ばれていて、非常に恐ろしい族(やから)である。牛頭馬頭(ごずめず)といった獄卒と混合されて、鬼のイメージは次第にその恐怖の面を増していった。
 鬼の角と鬼の虎皮を鬼門、つまり、艮(うしとら)からの連想とするのは俗説ではあるものの、説得力がある。鬼門というのは仏教ではなくて、陰陽道からくる考え方だが、そういった、仏教や陰陽道の影響を受けながら、鬼は見るも凶悪な外観を獲得していった。


・カバラは、ユダヤ教の聖典の研究から端を発した、記述の裏側に隠された真理を読み取ろうとする、恣意(しい)と教条に充ちた学問である。語句のつづり変えや文字と数字の置き換え、その数字の操作等といった、さまざまな方式を駆使した揚げ句に、彼らは全世界の組織や神の名、天使の名を発見し、天使軍の総勢を三億百六十五万五千百七十二名とまではじき出している。


・中学や高校の休み時間、あちこち勝手に分かれて、てんでにわいわい騒いでいる最中に、全く不意に全員の会話が途切れてしまうことがある。そんなときは決まって、クラスじゅうが、がん首そろえて、教師でもやってきたのかと扉の方を振り返るのが常なのだが、それが何でもない、ただの偶然の静寂だと分かると、どっと全員の照れたような笑い声が漏れる。

↑これ、あるよね。
 ちょうど、この静寂が訪れる前に、大声でしゃべっていた者の声が浮き上がって、妙な注目が集まる。声を発していた本人が、「えっ……」という感じで驚き、恥じらい、そして、途端にみんながドッと笑い出す。しかし、どうしたことか、この妙な現象は、学校に通っていた頃に限定される。社会人になってから、会社でこんなことが起こったことは一度もない。
 子供社会限定の「あるあるネタ」なんだろうな。


・偶然性の入り込む種類のゲームは好きになれなかった。原理的にはただ実力だけに左右される、チェス、将棋、囲碁などの方が性に合っている。

↑俺はこの意見に反して、偶然性の入り込まないゲームが好きじゃない。実力だけが問われるゲームは、どうしても、玄人ばかりになって、息苦しくなる。
 対戦格闘ゲームがそうだった。初心者が気軽に対戦できるような雰囲気ではなかった。仮にゲームに参戦したとしても、上級者に瞬殺されるだけで、全く面白くないのだ。
 結局、巧者同士の対戦になってしまうのである。
 ほかに、実力だけが問われるゲームの難点は、「運」の要素を切り捨ててしまうこと、そのものにある。
 何が起きるか分からない「運」こそ、俺はゲームの醍醐味(だいごみ)だと思っている。
 ワクワク、ドキドキの源泉といってよい。
 「運」という不確定なものを引きつけたうえで、勝負に勝つのが俺は好きだ。
 そして、俺はそんなとき、こんな風にのたまう。
「運も『実力』のうちである」
 と。


・「カタストロフィー理論」は、合理主義的な学問である数学から生み出されたところに値打ちがある。
 この理論の柱となる定理は、こうだ。
「四次元時空連続体における、全ての現象に現れる不連続的な激変の型は、7種類のタイプのいずれかに該当する」
 分かりやすくいえば、自然界の全ての現象は、7種類の型しか持ち得ないということである。
 膨らませていた風船が破裂する。
 繁栄していた経済が、突然、恐慌に陥る。
 地震が起こる。
 勉強のできるやつの成績が急に下がり、数学を専攻している者が、密教に狂い出す。
 赤ん坊が火のついたように泣きはじめ、どこかで戦争が勃発する……。
 この世は全くのところ、限りないカタストロフィーの繰り返しである。

↑「分類」がすごいのは、はじめてそれを耳にしたときには、
「えっ、たったそれだけなの? その程度にしか枝分かれしないの?」
 などと、疑問を覚えるのに、最後は大いに納得してしまうところだ。
 恐ろしいことに、この世のほとんどの事象は、「分類」可能であり、しかも、思っている以上にその型が少ない。
 多様性なんて言葉がなくなっても困らないくらい、この世は画一的なのだ、ある一面において……。


・あなたには、もうずっと前から判ってたんじゃないかしら。甲斐さんは、特別な器具や操作など何も必要としないで、あの部屋から外に出ることができたの。つまり、あの部屋の扉は、最初から最後まで、一度も鍵などかけられてはいなかったのよ。

↑本作に出てくる、密室トリックの一つとして、単に鍵がかかっているように思っていただけで、実は扉は開いていた、密室じゃなかった、というのがある。
 盲点、というか、灯台下暗し、というか、ストレンジ、というか、センスのあるトリックだよね。
 「錯誤」というブランド牛の厚切り肉に、「大間抜け」というネーミングのソースがかかった料理のようなもんだ。
 俺、このステーキ料理、大好き。
 ちなみに、この扉のトリックは、そのまんま、元長柾木の代表作『嬌烙の館』に登場している。
 元長柾木といったら、センス・オブ・ワンダーと称される作家だけあって、独特の雰囲気が作品内に漂っていることで知られている。
 アニメーションで例えるなら、シャフトが製作した『化物語』(原作・西尾維新)のような感じが近い。
 とにかく、変で、センスがずば抜けている。
 これが元長柾木とアニメ版『化物語』の共通点だと思う。
 この個性あふれる元長柾木が、『嬌烙の館』のゲーム内に、『匣の中の失楽』のオマージュを仕込んでくるのがよい。
 元ネタの面白さに、元長柾木のセンス・オブ・ワンダーが加わるのだから、その不思議なおもむきに、当時、若かった俺は、『嬌烙の館』のとりこになった。
 多分、このエロゲーをしのぐエロゲーは、今後、絶対に登場しないんじゃないかな(個人の感想)


・作家がときとともに失っていくものがみずみずしい輝きだとすれば、獲得できるものは職人的技量だったり、バランス感覚だったり、人間を描く力だったりする。意地の悪い言い方をすれば、長年作家業を続けた者は、そういう部分で対抗するしかなくなってしまうのだ。だから、彼らが新人の作品を評価する場合、例えば人間が描けているかという点にやかましくなったりする裏には、そういう事情からくる無意識的な自己正当化のからくりがあるのではないだろうか。

↑人間を描けているかどうか、という問いは、今はあまり、問われていないように思う。どこまでいっても、文学的主題にすぎないからだ。例えば、推理小説やSF小説にとって、人間が描かれているかどうか、なんて、ほとんど関係ない。
 前者はトリックの巧妙さが議論の的となり、後者はSF設定の妙が問われるだけである。
 さっこんのライトノベルもそうだ。
 人間が描かれているかどうか、ということよりも、皆が好きなキャラクターがいるかどうかが問われている。
 売れるキャラ、萌えるキャラ、がいるかどうかが問題なのだ。
 古くさい文学的主題でもって、現代のノベルをどうこう言うのは、どうかしていると思う。