・善人ですら往生をとげる。ましてや悪人が往生できぬはずがない。
善人は自分の力でよいことをおこなって救われようとするので、他力に頼む心がない。阿弥陀(あみだ)さまの本願にかなっていない。
むしろ、悪人の方が他力にすがるしかすべがないので、阿弥陀(あみだ)さまの本願にかなっている。
・念仏は行でもなく善でもない。阿弥陀(あみだ)さまの他力によって唱えるもの。
・普段、念仏を唱えても、躍り上がって喜びたい気持ちに少しもならず、それどころか、早く浄土へ行きたいという心も起きない。どうしてか。
そういう考え方こそ、煩悩にまみれている証拠。それゆえ、阿弥陀(あみだ)さまの他力によって往生できることが約束されているようなもの。
念仏して躍り上がるような喜びがあり、早く浄土へ行きたいと思う人は煩悩がない。かえって、往生は疑わしい(だって、煩悩がなければ、もうお前、仏だろってこと)
・いかに悪人を救うという願が不思議といっても、結局は善人を救うはず、という考え方。
よいおこないをすれば……なんて思うのは阿弥陀(あみだ)さまの他力を疑っているに等しい。大いに嘆き悲しむことである。
阿弥陀(あみだ)さまの他力に善行も悪行も関係ない。
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■『歎異抄』を読んだ感想
もしかしたら、阿弥陀(あみだ)さまのお考えを取り違えているかもしれないけど、何もしなくても阿弥陀(あみだ)さまの他力によって、地球上の全ての人は往生できる。念仏を唱えたから往生できる、なんてレベルじゃない。念仏すらいらない。念仏なんて、刺身のつまみたいなもん。
本当、何もしなくていい。
はじめから、全ての人が救われることが分かっている。
はっきりしている。
阿弥陀(あみだ)さま、すごい。
しかし、だからといって、どんな悪事をしてもよい、とは言っていない。いや、正確には、身に備わっていない悪行は犯すことができないらしい。
何か、勘違いしちゃうんだけど、善事も悪事も自分の意志でおこなうものではないようだ。
だから、あるがままの自然体でいればよい。
人も救えないし、人も殺せない。
それが大抵の人の器だろう。
しかるべき因縁に従って、日々を送ったらいいらしい。