つい先日教祖である池田大作氏が亡くなり話題となっている創価学会ですが、その創価学会と密接な関係で繋がっているローカル線があります。それが身延線です。

現在とある事情により身延線と創価学会の関係はほぼ断たれていますが、今もその関係の跡は色濃く残っています。

ここでは身延線が創価学会にどのような影響を受けたかを紹介します。

※本稿は創価学会やその関係者等を批判・中傷する意図はありません。

 

創価臨が身延線に乗り入れる理由

創価学会信者を乗せた団体列車を「創価臨」と呼びますので、ここからは創価臨と呼ばせていただきます。

そもそも創価臨がなぜ身延線の乗り入れるのか?それは身延線が富士宮市を通るからです。

富士宮市には日蓮正宗の総本山である大石寺があります。この大石寺は当時創価学会の聖地とされており、多くの信者が創価臨に乗ってやって来たのです。

しかし、1991年に大石寺が創価学会を破門にしたため、信者の往来はパタリと止まりました。

富士宮市に創価学会の聖地があったことは多くの人の記憶から忘れさられていますが、身延線には当時残された遺産が今も残っています。

 

 

富士宮駅の団体ホーム

富士宮駅は大石寺の玄関口として旺盛を極めました。

その名残として非常に長いホームがあります。身延線の列車は基本的に2両か3両編成で運転されますが、富士宮駅のホームは10両編成の列車が丸々収まるほど長いです。

これは当時運行されていた創価臨の編成が長かったためです。

この時身延線には何両もの客車を引き連れた列車や、東海道本線で使用される113系が乗り入れたりしていました。

今の列車に対してあまりにも持て余してるホーム

そして富士宮駅の名物と言えば団体列車専用ホームです。

その名の通り主に団体列車が使用するホームですが、通常利用される一般ホームよりも明らかに立派でした。

長いホームをほぼ全て覆うようなデカい上屋が設置され、この上屋は駅前広場にまでせり出していました。

そのため、列車を降りたら雨に濡れることなく直接バスに乗り込めるような構造になっていました。

さらには、団体ホームと一般ホームを結ぶ跨線橋も設置されており至れり尽くせりな状態でした。

しかし、これらの設備は現在ほぼ撤去されています。

巨大な上屋があった時代と現在の様子。駅前のロータリーにまでせり出すような上屋が設置されていましたが、現在は撤去されています。

上屋があったころの団体列車ホーム。ほぼ全体が上屋に覆われていました。

団体列車ホームと一般ホームを結んでいた跨線橋。こちらも上屋と共に撤去されています。

 

 

富士宮駅の巨大電留線

信者たちが参拝している間、信者たちを運んだ車両をどこかに待機させておかなければなりません。

そのために造られたのが富士宮駅の電留線です。

この電留線は8線もの留置線が敷かれ、客車に対応するため機回し線も用意されていました。

かなり広大な敷地を擁していましたが、富士宮駅の団体列車ホーム同様、創価臨の乗り入れが無くなってからは使用される機会は無くなり長い間放置されていました。

その後、2012年に富士宮駅から西富士宮駅の区間を高架化するにあたり撤去され、現在は駐車場になっています。

富士宮電留線の跡地。線路沿いに不自然に広い土地がある場合は大体元鉄道用地です。

かつてはここに何本もの線路が敷いてありました。

「羽衣湧水池」と書かれている位置の手前まで富士宮電留線の敷地と思われます。

実際、この敷地の周りには「工」の文字が書かれた境界杭が何本も立っています。

 

富士から富士宮の複線区間

身延線はローカル線でありながら富士から富士宮までの10.7kmが複線化されています。しかし、当該区間の身延線の列車は1時間に3,4本で十分賄える本数です。

なぜこの区間だけ複線化されているのかというと、これも創価臨のためです。

1960年代後半から創価臨の乗り入れ機会が爆発的に増えたため、単線の線路では捌ききれなくなったのです。

そのため、創価臨が走る富士から富士宮が複線化されました。これにより多くの列車の乗り入れが可能になったほか、所要時間も短縮されました。

創価臨が乗り入れなくなった現在も複線区間はそのまま残っています。今となっては過剰な設備ですが、あることに越したことはありません。創価臨の乗り入れが無かったら確実に単線区間のままと思われるので、これは創価臨の賜物と言えます。

複線区間を走る身延線の普通列車。複線区間ではそれなりの速度で走ります。

 

富士駅の分岐方向変更

身延線は富士駅から分岐する際西側に向かって分岐しますが、1969年以前は真逆の東側から分岐していました。

わざわざ分岐方向を変更したのも創価臨のためです。

当時、身延線に乗り入れる臨時列車の多くは東京方面からの列車でした。東京方面の列車が身延線に乗り入れる場合、身延線は東側から分岐しているため、富士駅で進行方向を変える必要がありました。

当時は機関車が客車を引っ張る列車が当たり前だったため、スイッチバックは現在と比べ物にならないほど手間のかかる作業でした。

この手間を省くために身延線の分岐方向は西側に変更させられ、東京方面からの列車はダイレクトに身延線へ乗り入れが可能になりました。

しかし、現在東京方面から身延線に乗り入れる列車はほぼなく、その恩恵は全く受けられていません。

むしろ、静岡へ向かう特急ふじかわは方向転換を余儀なくされており、富士駅で3分ほど停車します。

富士駅での分岐方向を変えることによって、方向転換せず身延線への乗り入れが可能になりました。

富士駅身延線ホームの東側。不自然にカーブしているのはかつてこの方向から身延線が分岐していた名残です。

 

富士から入山瀬の高規格付け替え区間

身延線の線路は富士駅の分岐方向が変わったことにより富士から入山瀬までの5.2kmの区間が付け替えられています。

さらに、この区間は複線の上、踏切が1個もない高規格な路線となっています。

なぜ、ローカル線にこんな高規格な線路を作ったのでしょう。理由としては交差する国道1号線の渋滞が顕著になったためですが、そもそも原因を作り出したのは創価臨です。

 

■富士~柚木

富士を出た列車はそこそこ急なカーブを曲がり北上していました。現在は道路に転用されています。

そして、県道の先にあった駅が「本市場駅」です。この本市場駅は新線切り替え時に廃止され、代わりに作られたのが「柚木駅」です。なお、旧本市場駅付近から廃線跡は「富士緑道」という遊歩道に転用されています。

赤線が旧線です。本市場駅から柚木駅までは1.5kmほど離れています。

 

■柚木~竪堀~潤井川橋梁

柚木駅の次は竪堀駅ですが、竪堀駅は付け替え前にも存在していました。

しかし、付け替えの際400m西に移動し高架駅として再び設置されました。旧竪堀駅は現在公園となっています。

身延線の旧線及び、富士緑道は潤井川を渡る手前で終わっているがこの潤井川橋梁の手前が新線と旧線の合流地点です。