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真にありがとうございます。

「無心の境地とコントロールの違い」

これは私にとって
とても興味深いテーマです。

多分、瞑想を深めていくうえで
ポイントとなる
「観察する」
「俯瞰する」

という状態(境地)になる事と
思考でコントロールしようとする事は
『似て非なるもの』であり
紙一重の違いである
ということだと思います。

それをとても分かりやすく
物語として伝えているサイトからの
要約文となりますが
ご紹介させて頂きます。


 昔とある村に 非常に怒りっぽく
 暴力的な男がいた。
 その男はささいなことで怒り
 妻を殺したほどだった。
 そこにジャイナ教の僧侶が通り、男に
 「怒りと暴力でいっぱいになった
 この心が、おまえを地獄へと
 導くだろう」
 というと男は深く後悔し、
 その日から世俗のすべてを捨てて
 僧侶の弟子となり出家した。

 男の名はシャンティナスといい
 「平和」という意味を表していた。

 男は厳しい戒律を守り
 過酷な断食や苦行も耐え抜き
 やがて自分の師よりも有名になった。

 怒りっぽい人
 傲慢な人
 自己中心的な人たちは
 穏やかな人たちが時間がかかることでも
 やってのけることができる。
 男は非常に有名になり
 多くの人々が男の足に
 触れるために訪れるようになった。

 20年後、男と同じ村にいた村人が
 たまたま男に会う機会があり
 男の元に訪れました。
 村人は「彼は全く新しい人間に
 なったのだろうか」と思いながら
 対面したが・・
 その顔、その目を見たとき
 それは決して高い境地に達した者とは
 思えない自己中心的で醜いもので
 あった。

 村人はあえて男のことを
 知らないふりをして
 「あなたのお名前は何とおっしゃるの
 ですか?」ときいた。
 男は村人が、

 かつての自分を知っているのに
 わざと知らんぷりして質問してきたことに
 怒りがこみあげてきた。
 それでも男は自分をコントロールし続け
 名前を名乗りった。
 自分の名はシャンティナスであると。

 村人はわざと
 「素晴らしい名前ですね。
 でも私は忘れっぽいのです。
 もう一度おっしゃって頂けますか?
 お名前は何とおっしゃいましたか?」

 男はいつも棒を持っていた。
 その棒を手に取り・・
 彼はすべてを忘れた。
 心のコントロールに費やした20年・・
 そして男は言った。
 「もう一度たずねてみろ。
 そうすれば、私は誰なのか教えてやる。
 お前は忘れたのか?
 私は妻を殺した、その同じ男だ!」

 そこで初めて、何が起こったのか
 男にはわかった。

 無意識の一瞬のうちに
 男は20年がムダだったことを悟った。
 男はまったく変わっていなかったのだ。
 だが、実に多くの人々が男の中に
 崇高さを感じていた・・
 男はとてもよくコントロールされ
 自分を抑圧し続け
 とても尊敬されていたが・・

 心をコントロールすることはできる。
 しかし、コントロールされた心は
 目覚めた心ではない。

 無心を達成するには
 まったく異なるプロセスが
 絡んでくる。
 それは
 「見守っていること」
 という要素だ。


 無心の世界に入りたい人は
 ひとつのことだけを学べばいい――
 それは、
 あらゆることを注意深くやることだ。
 注意して自分の手を動かす。
 注意して目を開ける。
 歩く、油断せずに、気づきながら、
 歩を進める。
 食べる、飲む。
 だが、機械であることに自分が
 支配されてしまうのを
 けっして許してはいけない。
 

以上が引用の要約ですが

この内容は

 

Osho ヴィジョン
ひとつしかない瞑想 見守ること

 

というサイトからのものであります。

とても深い内容です。

 

自分をコントロールしようとする

のではなく

 

いまを

注意深く観察していく

ことを絶えず意識して

実践していきたいところです。