✡ADHD気質で神秘的なことに興味がある方々へ
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。からだに痛みを感じたときその部位に手を当ててさすると痛みが軽減しますね。これは痛みの信号は「細い神経線維」を通ってゆっくり脳に伝わり触覚(さする、押す)の信号は「太い神経線維」を通って痛みの信号よりも早く脳に伝わるので結果として痛みを感じにくくなるためだそうです。ですから気休めではなく、実際に緩和効果があるということなんですね。ただ一時的な緩和であり、ケガや病気の治療そのものにはなりませんが。◆メンタル的な苦痛も痛みと同様 触覚により癒される?以前、強いウツ状態で苦しんでいた時ちょうどコロナに感染し体重は1週間で7キロ落ち食事もままならなくなりその後は更にひどいウツに落ちておりました。極度の被害者意識状態でいわゆる妄想のループが続いていきそれはあたかも傷口をつつくような刺激を断続的に与えられその痛みに反応し続けている様な状況でした。何とか思考から離れ身体感覚に意識を向けようと深呼吸をしてみたり近くにある神社の境内の雑木林で自然を感じようとしてみたり。でもいろいろ試した中で一番効果があったのは布団を敷いてその上にうつ伏せになり呼吸が苦しくないようにして体全体で布団の柔らかい感触を感じ脱力するこの触感を味わいながらの弛緩した状態ほんの一時的ではありましたが怯えと怒りが混在したようなザワザワ感から離れられてだいぶ救われたのをいまでも覚えています。この時に感じたのは「メンタル的な苦痛もまた 触覚により癒される」というものでした。もう少し瞑想を受け容れて習慣化が進んでいれば長期間の苦しみを味わうことは回避できたのかもしれないと感じております。ただ・・環境的に追い詰められていく状況でしたのでその「メンタル的な痛み」に耐えかねて極端に反応的になっており逃げ場として陰謀論やスピリチュアルに依存し続けておりました。いま振り返ってみると内側の痛みを外側のサプライズで解決してもらおうというのは賭け事で大負けした穴を宝くじで一発逆転で埋めようみたいなもので本当に妄想的思考の世界に生きていたというのが実感です。ただ「メンタル的な苦痛もまた 触覚により癒される」という体感はそのあとの瞑想体験による身体感覚へ移行し思考から離れるという瞑想の基本を体得していくのにとても役立ってきたとも実感しております。◆振動感覚を感じる瞑想をするとき息を八分ほど吐いたところで止息し瞑目し身体内の感覚を探っていくと細かな振動を感じることがあります。特に阿吽の呼吸法で吸うときも吐くときも下腹部の丹田の部位を少し下へ圧迫するように感じていくと微妙に振動しているような体感が出てきます。この身体内の振動の体感を感じ続けていると「振動の体感を味わうことが 何よりも優先」というような感覚に入っていきます。そうすると日常のどんなときでもほんのわずかな数秒間であっても振動の体感を味わうことに意識が向いていきます。縷々述べてきましたが◯痛みは触覚により軽減できる◯微細振動感覚に意識を傾注するというのは個人的な経験からですが瞑想やヨーガを行ううえでとても有効な体感であると感じております。特に触覚は肉体的な痛みだけでなく精神的な痛み苦しみにも軽減/癒しの効果があるという点は日常の中で応用的に活用できると思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。現在普及しているPCやネット環境スマホもしかりですがわたしが新卒で会社に入社した40年前は巨大なオフィスコンピュータであったり携帯電話もでかい箱状のものでしかもバッテリーは長く持たなかったりそのころはパソコン自体もまだほとんど普及すらしていませんでした。そこからのデジタル化の波は怒涛の如く急カーブを描いておりもはやスマホ/ネットなしには生活できないレベルになってしまった・・◆ヒトの意識に多大な影響を与えている「集合意識」集合意識の変容がこれからのヒトの変容に直接的に影響を及ぼしてくるのではないか…それも極めてパソコンチックと言いますか・・PC内のデジタル世界と相似象な関係にあるように感じられるところがあります。PC上でずっと起動し続けていたアプリは不要になって削除することでメモリが開放されます。すると、PCの起動速度が上がります。またデータの加工や構築を行うとき試行錯誤の作業であったり長期間保存しながら加工し続けていくとき必ず、作業の「区切り」の時点でバックアップを取っていきます。これは何のために行うかというとオリジナル唯一だとPCが破損したり、データ自体が欠損したりあるいは作業が進捗した状態で元データの加工作業に不備があったとき「さかのぼってやり直しが出来ない」ためですね。また、作業が分岐していくときも同様です。選択肢が分岐していくほど先に行って何か根本的な問題が発生したり大前提を見直さなければならないときその分岐前の時点に戻って「やり直しを行う必要がある」これはリスクを回避するためには必須であります。このパソコン上でのアプリ起動によるメモリの減少バックアップデータによるディスク領域減少はPC自体の処理速度を低下させ高度な処理能力を制限することに他なりません。ヒトの意識に大きく影響を与えている集合意識にもそれと「相似象の現象」が起こっているのではないだろうか・・◆集合意識の変容のステップは・・!?集合意識は人類全体/地域・民族特定のコミュニティ等様々なレベルで存在しているものと思われます。それらは集団的なタンハー(根源的な渇望感)から発生し集団的な習気(法律・制度・ルール・規範・常識)で細かく形成されそれらがそこに属するヒトの意識上に大きな「制限」を与えると同時にそこに属しているという「帰属感」を与えます。集合意識にはそこに属するヒトが発生する意識が断片的・継続的に蓄積堆積していき巨大な「ひとつの意識」を形成していくと思われます。ところが・・何らかの理由で環境の変化が生じた場合(災害/人災/経済恐慌/制度の崩壊)膨大なヒトの発するストレスが集合意識に蓄積されそのストレスが長期間継続するような場合メモリの占有化が進みます。またそのような一種無秩序状態に陥るとあらゆる選択肢がヒトの内面意識に派生し続けます。これは多くの「世界線」を生じさせそれが膨大な量になるほど集合意識の領域は「バックアップ」で膨れ上がりますそうなると・・そこに帰属しているヒトの意識は余裕がなくなり反応的になったり衝動的な行動にでたり波動が劣化していきます。ただ・・集合意識もまた自然の摂理法則が働き起動アプリの削除やデータ消去が定期的に行われていくものと思われます。それが神道でいうところのミソギハライなのではないか・・それは現象的には更なる巨大な…壊滅的な病気/貧困/争い/災害のカタチで蓄積されたモノが激しく噴き出してくるのではないか。ただ…巨大なエネルギーの解放によりその直後はメモリの空き容量も大きくなりハードディスク空き領域も拡がりそれがヒトの意識に影響を及ぼし主体的・創造的・独創的な製品開発/技術開発/芸術の発展が大幅に進捗し得る環境になっていくのだと思われます。戦後世代がこのようなことを申し上げるのは不謹慎であると重々承知しておりますが第二次世界大戦(大東亜戦争)もまた大きな歴史的な節目として日本は避け得ない状況に置かれ凄惨な状況に追い込まれましたがそれゆえに集合意識に堆積していたモノが一挙に表出し放出され結果として日本人の意識が一挙に拡がり元々持っていた基質が爆発的に発現されて行ったのではないだろうか、と推察されるのです。いわゆる高度経済成長時代ですね。そして・・このプロセスは日本という国だけではなく地域、コミュニティ、特定の団体あるいは個人においても同様の原理・法則が当てはまるのではないかということなのです。このような「ミソギハライ」の概念はパソコンやネットといったデジタル機器が普及している現代ならば理解できると思われますが弘法大師の時代今から1200年ほど前の時代の人々にこの概念を説明し理解してもらうことは到底難しいと思われます。それゆえに「罪穢れ」という規範意識維持のための概念に置き換え物質開発に伴うヒトの精神波動の劣化を抑制してきたのではないかと思われるのです。また「ヒトの変容」というイベントについてですが例えていうならばいまの若い世代の方々は新しいPCであるからメモリの容量もハードディスクの容量もわたしのような旧世代とはケタ違いの比較にならないレベルではないだろうかと思われます。若い世代の変化変容をどれだけ支えていけるか・・ある意味年配者の役割りはその一点にあるのかもしれません。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。最近何となく感じるのですがヒトの悪想念~憎しみ/怒り/決めつけ/裁きなど~は感情という波動ですがこれは元々、沈んでいたマイナス波動が表面意識に表出して噴出したものでありそれは例えて言うならば元々、地底に溜まっていたマグマのエネルギーが地表に表出して噴火するのと同じなのかもしれない・・元々、人類の集合意識に蓄積され続けてきたタンハー(強い渇望感/根源的な欲求)がことあるごとに病気や貧困戦争や災害のカタチで表出しエネルギーを放出してきたのかもしれない。ならば一見、理不尽な不幸現象もまた同様の原理で特定の個人や特定の地域あるいはときに人類全体に表出しそのまま蓄積し続けると破裂してしまうため局地的・段階的・便宜的にエネルギーの放出・解放が行われているのかもしれない。そうなるとヒトの側から観れば不幸現象であり理不尽極まりないことであっても人類の集合意識の側から観ればヒト全体が滅亡してしまわないようにさじ加減を行いながら適宜、マイナスエネルギーを放出・解放し調整しているということになるのかもしれません。そんな妄想的考察からすると真我が表出してくる順番・段取りは・・◯集合意識に蓄積堆積されたタンハーの 放出・解放 ⇒ 戦争や災害による混乱◯長期間維持されてきた習気の 崩壊・消滅 ⇒ 社会システム/制度の崩壊による混乱◯タンハーや習気が放出・解放された後の 収束感と意識の拡がり ⇒ 思考が停止したような感覚の拡がり ヒトの意識領域が一気に広がる◯真我の表出 ⇒ 断続的・連続的に発見や発明が生じ 過去に蓄積してきた問題の解決 未来に向けた世界の再構築が 段階的かつ急速に進捗していくというような大ざっぱな流れになるのではないか・・そして未来社会に必要となる・AI量子コンピュータの進化と電脳化・化石燃料(石油)に依存しない 新エネルギーの実現・新素材開発による衣食住の変化・波動伝達技術によるエネルギーや 意思の伝達など今まで水面下で開発されてきた新技術や発明が目白押しで表面化しながらヒトの精神の根幹である「真我」そのものが表出しコントロールしていく・・もはや今までの人類とは異なる種に変容していくがその内実はヒトが真我そのものに「回帰していく」ということだと推察されます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。とかくこれからの未来は政治経済も国際情勢も災害や戦争も全体として漠然とした不安ばかり先行してしまいがちですがそんな中ネドじゅんさんや執行草舟さんのYouTube動画はこれからの時代に生きていくためのヒントが詰まっていてとても興味があります。それもテクニックというよりも新しい世界観新たな概念をご本人が直接コトバと波動を介してお伝え頂いていると感じます。◆「自分」ではなく「真我」が主体の変容今年に入ってから特に2月の旧正月以降世界全体の何か・・全体的な波動が変わったような感じがあったのですが結構多くの方々が何らかのカタチで感じられているようです。個人的にはこれから起こるかも知れない大変動に備えて自分も変わらなければ・・・的な焦燥感があったのですがそれが・・最近のブログのテーマになっております「真我の表出」であったのですがどうも「自分が変容しなければならない」ではなく「真我が表出するための変容が起きて来る」というようにその主体が「自分」ではなく「真我」に移行した様な・・阿吽の呼吸もまた自分が変容していくために行うのではなく真我が表面意識に表出してくるために自分の肉体・意識・概念が次第に整理されていく・・いわば真我が表出できる「波動」に変容していくための準備というようなイメージでしょうか。肉体も意識も概念も元々はそれぞれが波動な訳ですがその波動が低く穢ければ「出ない」けれども穢れが落ちてきて波動がそこそこ上がってくれば「出ても良い」に変ってさらに進めば「出ていきたい」となっていく。そうなってくるともはやタンハーや習気の「シバリ」がある程度解けて真我が表出してくる余地が出始めたということなのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。だいぶオカルトチックな内容に深入りしてきておりますが・・真我という領域は思考以前の波動レベルの領域でありそこからの波動はそのヒトの持つタンハー(ヒトとしての渇望的欲求)や習気(そのヒト固有の習慣や世界観)により二元的思考(選択肢)へと変換され行動のための選択を行っていく・・およそその様な流れで真我の波動は現実世界へ流出してきたと言えるのでしょう。この「二元的思考(選択肢)へと変換され」の部分がもはや不要になってきているというこれもまた私たちが直面している「現実」といえるのでしょう。◆二元的意識に代わる「最終形態」元々「真我」=宇宙の思念波(思念体)はこの二元的意識の世界にはあるがままでは存在(認知)し得ず仮にそのまま存在したとしても「何ら物質的変化を起こし得ない波動」であったのでしょう。ですから・・ある程度「真我」の波動にそのまま反応し得る物質的な仕組みを構築しておくことがこの三次元現実世界に存在してきたヒトの役割りであったとも言えるのでしょう。多分それが・・ 電脳化+ワンネス化+士道精神化 への究極的統合という「最終形態」での現象化を果たすことにつながっていくのではないか?と想像されるのです。◆ミロクの概念の顕在化(宇宙の法則)「ミロク」というキーワードは仏教や神道を通じて遥かな未来世界への予言として古くから日本人の意識に定着してきましたがこのミロクの概念こそが宇宙の法則そのものでありこれが現実世界に顕在化してきたときいままで秘匿されてきた高度な科学技術や高度な精神技術が段階的に開放されてくるのでしょう。3は「創造」6は「調和」9は「究極/統合」今までは「3」と「6」の法則がこの二元的世界にシバリを与えこの世界の物質文明・科学技術を発達させながら他方、崩壊を回避させてきましたがここからはいよいよ「9」の法則による「究極/統合」期へと向かって行きます。そのため波動の波が激流の如く私たちの意識に流れ込みその流れが急激な方向転換を繰り返すという現象が起きて来るものと思われます。もはや外側の物質的な価値観や判断基準即ち「金銭や地位権力等」はその意味を失い内側の精神的な波動を感得しそこから「意図を読み取る」ことこそ真の在り方へと切り替わっていると言えるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。「集合意識」という概念で思い出されるのは5~6年前に読んだある記事の内容です。◆「一日三食の常識」と「餓死」確か日本人は江戸時代までは一日二食であったものが明治以降に一日三食になったというものです。二食が三食へと変わっていったその大きな要因となったのが当時、発明王として有名であったエジソンが一日三食の習慣により脳の働きが活性化すると宣伝したためだという逸話です。大量生産し始めた小麦の消費量を大幅に拡大するために世界の市場拡充を目的とした宣伝であったとも言われております。実際に一日二食だったのは江戸時代中期頃まででありそれ以降は三食に移行していたようです。農業生産量の増加や菜種油による灯火の普及による活動時間の延長などがその要因であったようです。まあ、エジソンも電灯を発明した訳ですからさらにヒトの活動時間が夜行性になったという意味では三食+夜食・飲み会的な消費拡大につながったとも言えるのでしょう。欧米の穀物メジャーの圧力もあったことでしょうから。ただしヒトは元々、朝夕の二食で一日の活動活力を十分に吸収できるという話しもあります。また更には・・食物をとれずに餓死するというのはヒトの集合意識の中に「食べなければ死ぬ」という恐怖の概念が刻まれているからでありヒトは根源的には太陽の光や自然の氣からプラーナ(Prana:生命エネルギー)を吸収することができ食物は必要としないという説もあります。何十年も食べない寝ないで年も取らないという言わば不食不老の少年というのが話題になったことがあります。どこの国だったかは忘れましたがその少年は太陽光からエネルギーを吸収することができて同時に睡眠も取る必要がないというものでした。そして・・その新聞記事が出た80年後同一人物であると思われる顔かたちの少年の不食の体質を紹介された記事があったのです。この後も数十年後にまたもや同一人物かと思われるの少年の不食の記事が話題になったというものですヒトは根源的には自然に満ちている氣=プラーナを体内に吸収し精神および肉体の活力を維持することが可能でありその方法を長年忘却してしまっているに過ぎないのかもしれません。実はこの「ヒトは食べなければ死ぬ」という強迫的概念が人類の集合意識の中に深く刻まれている為に食べるためには手段を択ばないという「仮想の弱肉強食の世界」を演出することなってしまったとも思われます。あたかも他人を蹴落としてでものし上がっていくのが人間社会・・的な。これからの日本人の食生活は緩やかにですが確実に穀類中心の食事に回帰していき最終的には不食の域まで達するのではないか・・などと妄想的考察をしております。◆集合意識の崩壊と限界突破(真我の表出)集合意識は様々な種類とレベルで私たちに「シバリ」を与えています。それは国のレベル、民族のレベル、地域(地方)のレベル、企業・団体、宗教、コミュニティなどの特定の社会のレベルそれらのレベル内において共通の価値観、平均的な信念・常識、戒律、法律、慣習、同調圧力などのように様々な種類の影響を与えています。そしてそれらは集合意識の母体となる「まとまり」が存在し続ける間は維持されて行きます。では・・「終わり」はいつ訪れるのでしょうか?◆集合意識の崩壊と真我の表出これは個人的考察の域を出ませんが集合意識を維持している原動力は「タンハーと習気」即ちヒトの根源的欲求や社会的拘束だと思われます。ですからヒトはそこを破ろうとする者がいれば激しく責め立てたり排斥したり不安をあおって元のサヤに戻そうとする。異物扱いですね。これは当然のことでいわゆる同調圧力もしかりですね。昔、起業塾に参加したとき中小企業診断士や社労士などの資格を持った方が講師だったのですがその方がおっしゃっていた事で特に印象に残っているのが「起業はそれまでの常識やシバリという 限界を突破することであり そこを突き抜けた先に 大きく開かれたミチが在る」という内容のお話しでした。いわゆる士業に従事されている方々の多くがある意味で「奉仕や貢献の精神」或いは「利他の精神」というものを根底に持ちそれぞれに「使命感」を持って社会に寄与しておられる理由は限界突破というゲートをくぐり抜けたゆえということでしょう。これも「集合意識の崩壊と真我の表出」のカタチと言えるでしょう。これと相似象ともいえるカタチがこの世界全体に表出してくると予測されるのです。ですから・・サラリーマンから独立して起業するという方向性は全体の流れから観て極めて妥当な選択肢だと思いますがただその根源的なエネルギーが利己的な欲望や単なる時流に乗る的なものだと耐えていけないと思われるのです。そこには必ず前述のように「奉仕や貢献の精神」或いは「利他の精神」というものを根底に持ちそれぞれに「使命感」を持っているという「面」が必要になると思われます。それこそが 真我の表出 真我の発露に通じる生き方であると確信しております。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。このブログもだいぶマニアックになってきましたが・・◆ヒトの構成要素は「肉体/意識体/思念体」個人的な見解ですがヒトは3つの要素で構成されていてそれは・肉体・意識体・思念体という区分けがなされており但しそれぞれの境目は「あやふや」というか「おぼろげ」でありヒトを構成するうえで互いに連動・依存し合っているという関係だと想像しています。そして、それぞれは肉体は、タンハー意識体は 習気思念体は 真我に強く影響を受けながら変化し続けていると思われます。いくつか前の記事で記しましたがタンハー(Taṇhā、渇愛)は仏教において苦しみの根本原因とされる喉が渇いた者が水を切望するように際限なく快楽や存在を求める「根源的な欲望」習気(じっけ)は過去の行為や思考が習慣やクセとして残留しているもので無意識の行動や習癖として現れてきます。真我は無意識領域の思念波即ち二元的意識(善悪/正否/快不快など)に分岐する前の純粋概念或いは宇宙意識と言い換えてもよいものでしょう。これら肉体・意識体・思念体の三体が互いに入り組んだり干渉し合ったりして変化を続けているのがヒトという存在ではないかと考察しております。そして真の天岩戸開きは 真我(思念体)が表出してくることとも考察して参りました。◆ヒトの意識上に 新たな概念が定着するまでひとつの概念がヒトの意識上に定着化するまでどのくらいの期間がかかるのだろうか・・例えば仕事上必要となる技術や武道やスポーツ、車の運転やスマホ、パソコン操作、プログラミング技術など何らかの技術やスキルを習得しようとする時まずは基本的な動作(操作)を繰返すと共に基礎的な専門用語や知識を学び基礎から応用までを段階的に習得していく。あとは試行錯誤を経て自分のモノにしていくというのが順序かと思われます。いわゆる知識⇒試行錯誤⇒習慣化⇒概念化といった流れですね。でも・・それらを習得する前に社会生活を営むうえで身に付けてきた・学校教育での知識や集団生活でのルール・職業上での知識やコミュニティのルール・生活する上で必要となる機器の操作方法・基本的な法律や社会制度の理解・経済的知識(金銭感覚)などが大前提にあることは言うまでもありません。ある意味、それらは在って当たり前ですから・・しかしそれらは生まれた時に身に付いていたものではなく生まれてから教育(学び)の期間を経て身に付けてきたものでありそれらひとつひとつ「知識」として学び「試行錯誤」⇒「習慣化」したのちに意識上に「概念化」して定着という段階を踏んでおりその土台があるからこそさらに新たな「概念」が蓄積していける訳ですね。昭和の時代、特に戦後の高度経済成長の時期は大量生産~大量消費一億総中流化の怒涛の如き時代の流れがありました。鉄道や高速道路などのインフラ整備や教育制度や施設の整備も急速に進みました。総てが急激な経済成長に結びつきそれが現代日本の国力となっている訳ですね。またそのあとのバブル経済期は止まらなくなった高速列車に急ブレーキをかけるための時期でもあったのでしょう。ただ時代の流れが変わったといいますか・・経済こそが至上の価値観みたいな風潮は明らかに終焉し昭和の時代の価値観は風化し特に令和に入ってからは何か異質な時代に突入したような感覚を感じてしまいます。今までの常識や既成概念が段々と崩壊していくような・・◆電脳世界への序章!?ここ十年ほどの間で様々な先進技術が急速に発達してきました。AI技術もしかりですが、中でも仮想現実(バーチャルリアリティ)は若い世代にゲームを通じて深く浸透してきております。またかつてテレビに夢中になっていた世代すら日常生活でスマホを手放せなくなっている。既に日常の大半がリアルではないデジタル世界が占めているということ・・またアニメーションも優れた作品や技術により世代や国境を超えて浸透していますね。これも60年ほど前鉄腕アトムを始めとするテレビアニメが普及し始めた頃から見ると天文学的なコンテンツ量と高い品質の画像や音響による臨場感は予想を遥かに超えた「進化」としか言いようがありません。既にヒトはデジタルなしには生きていけないのであり仮想現実の世界も視覚と聴覚以外の触覚や味覚、平衡感覚も体感できるようになればもうそれは新たな別世界といっても過言ではないでしょう。つまりヒトが意識していようといまいと流れはヒトの電脳化に向かっているという事実です。最終的に・人体となる素材・脳と接続されるAIの問題は残されているとしても脳とAIを接続するための「波動技術」は既に達成に近いのでは・・など推察されても不思議ではないでしょう。確かなことは・・この100年ほどで科学技術の進化のスピードはケタ違いの急カーブを描いてきているという事実でしょう。◆ヒトの進化変容のために 必要となる概念は!?科学技術・物質開発の面ばかりを追ってきましたが本質的にはヒトの意識自体が根本的に大きく変容していく必要があるのだと思われます。デジタル化や仮想現実の世界も含めその準備段階であることは明らかですがここで大きな問題となるのが多分・・ヒトの時間の概念と死生観ではないかと思われるのです。そのための準備といいますかこれは若い世代には既にアプローチが始まっており既に浸透し始めている概念がいまの段階でもいくつか見受けられます。特にアニメーションという媒体を通じてですが◯時間は未来から過去に向かって流れている◯未来から過去の一定時点まで遡って やり直し(是正)が行われている (或いは、その機会が与えられている)◯並行世界(パラレルワールド)が 存在している(絶えず派生し続けている) また、並行世界は隣接している程違いが 少なく、離れているほど大きく分岐して 大きな違いが生じている。◯ヒトは地球以外の異世界への転生も ありうる(地球上の輪廻からの解放)。 といった概念はとても興味深く尚且つ若い年代に対してのアプローチである点は極めて意味深なものがあります。まあ、時間の巻き戻りとやり直しの概念は既視感(デジャブ)により直感できたり並行世界の概念はマンデラエフェクトや偉大な予言者の予言であっても総てがその通りに現象化せず微妙にずれが生じていたりとか。かならずそこには一種の「ユラギ」が生じ真実の一端が見え隠れするように仕組まれているように感じます。新たな概念というのはヒトの意識上に定着するまでに何千年間、何百年間、何十年間要していた時代もあったでしょうがいまは何年間、何か月間、何日間という速さで定着しているようです。(特に2000年以降出生した年代に)そしてヒトは心ひかれれば同様の概念に通じるアニメーションや仮想世界のゲームを繰り返し臨場体験していきますので自然に意識下の無意識層にしみ込む様に定着していきます。それは近未来の電脳化をヒトが受容していく際あるいはヒトの意識上に真我(思念体)が表出してくる際に必要となる新たに基本となる概念をいわば 「ダウンロードしている」ということに他ならないとも思われるのです。ある意味、それが必要な世代にですが・・このあたりの考察はもはや妄想の世界であり綴り出したらキリがないレベルなのでこのへんで区切らせていただきます。
つたないブログへご訪問頂き真にありがとうございます。◆ADHDの特徴自分の体験なのですが・内面的なソワソワ感、 頭の中が常に忙しい状態で 思いついたことをつい口にしてしまう。・会話中に相手の話しを途中で遮ってしまう。・目先の報酬や快感を優先し 長期的な視点を考えずに行動してしまう。・怒りや興奮を抑えられず 感情がそのまま言動に現れてしまう。・タスクの優先順位付けが難しく 物事を計画的に進めることが難しい。・単純作業や興味の薄い作業では 注意がすぐ外れケアレスミスが多くなる。・静かに見えても頭の中では 次々と考えが移り変っていくため 周囲からは「ぼんやりしている」と 誤解されやすい。・「退屈」や「不安」といった感情が強いと 意識していても体が動かず 作業が進まないことがある。 ざっとここにある特徴は日常茶飯事に起きている現象です。本当に・・困ってしまうところです。◆効果的な対処法はとにかく 時間・空間への意識の拡がり方が 区切れないため 漠然とした意識になりやすい。あるいは 音の刺激が多い環境では そこに注意が向いてしまい 目の前の作業に集中できない。また 目先の刺激に意識を奪われ それまでやっていたことを忘れて 放り出してしまう・・重複した症状もありますが対処療法的ですが経験値から意識的に行っているやり方はシンプルにいえば・作業を小分けにする・タイマーで区切る・刺激の少ない環境を作るなどでしょうか。いわば・・ 時間・空間を区切るというのがポイントのようなのです。◆6秒・60センチルール昔、何かの記事で読んだ内容なのですが車を運転して目的地に向かうとき例えばそれが真っ暗なミチであったとしても前方60メートルさえ明るく照らされていれば最終的に目的地に到達することができるというもので多分、その意図することははるか先が見えていなくても目の前の「いまここ」に集中して成すべきことを成していれば物事はきちんと進んでいくということなのでしょう。この「60メートルさえ」というのが結構記憶に残っておりこれをもじった「6秒ルール」・・時間の区切り「60センチルール」・・空間の区切りという方法を試行錯誤ながら試しております。周りからの刺激が少ないと漫然として意識が散漫なまま時間が経過する。逆に周りからの刺激が多いと周囲に意識が分散して目の前に集中できない。ならば・・意識的に目の前の「6秒間」だけに集中する目の前の「60センチ以内」だけに集中するという方法です。いたって単純ですが結構重宝しております。ご参考になれば幸いであります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。阿吽の呼吸法の「意義」の考察であります。弘法大師の残された「吽字義」の考察のもとあちこちにちらばっているピースをはめ込んでいくような視点ですが・・その目的はひとつの方向性を持っていると感じております。日本という国は本当に至るところにヒトを変容へと導くためのヒントというか断片が残されており私たちはそれらをつなぎ合わせ読み取り実践していくことが出来得る機会を与えられているのかもしれません。ヨーガや瞑想武道やスポーツ華道や書道多種多様な宗教観日本人の精神性を保ち続けるために様々な文化芸術や武道などが存在し続けてきたのでしょう。◆ワンネス表出の障壁「いまここ」に気づいているという意識状態がいわゆるワンネス(すべてがひとつで在る)という感覚を呼び覚ましていく入口になりますがこの意識への切り替えがひとつのハードルになっていると思われます。縄文時代というワンネスの時代が閉じてから既に2000年ほど経過しており地殻変動による気候の急激な変化とそれに伴う過酷な生存環境、そして生きるための間断のない技術の発達・・それらはワンネス意識をヒトの無意識の奥深くに押し込んで来たのですからそこから蘇らせるのは容易ではないのでしょう。しかしだからといって超音波や人工的な周波数の波動を照射して蘇らせられるものではなくまた催眠術や人工的な薬物を投与して蘇らせるものでもなくまたこれをやれば誰でも楽々OK!みたいな蘇りでもないように思われます。やはりそこには身口意という三密いわゆる身密・口密・意密が融合した仕組みが発動していくことが要諦と思われます。その要件を満たしていればヨーガや瞑想武道やスポーツ華道や書道多種多様な宗教であってもその歩みは同じなのではないかと思われます。それらのミチに共通しているのは外から内ではなく内から外へという根本的な概念であります。◆そしてその中核にあるものは・・弘法大師の表した著書の中の「吽字義」は身口意の三密の中の「意密」を解説したものでありますがその中核をなす「吽」の一字の字義は三句の法門すなわち「菩提心を因となし 大悲を根となし 方便を究竟となす」に集約されそこに総てが在ると言われております。わたし自身吽字義に触れたのは最近のことであり過去のブログでは知ったかぶって解説もどきをしておりますがその真義は到底理解も体得もできておりません。ただ・・触れることでそこに感じるのは極端に要点化した表現になりますが「利他愛」の在る「主体性」と「歓喜」でありそれは行動が伴っておりそれがワンネスの中核概念であると思われるのです。・・・ですから阿吽の呼吸の「裏」バージョンはこの中核概念を体現していくという想念が伴うことで無意識の意識下に在るワンネスの表出につながっていく・・と思われるのです。阿吽の呼吸法は「吽」の一字が含まれている一種独特の技術でありますがそこにはヒトの意識下の無意識の領域を刺激し開いていく奥深いモノが在るのではないかと思われるのです。無意識の「吽」の領域は膨大な「知情意」が蓄積されていてそこから良質な意識を必要なときに必要なことを必要なだけ抽出し現実世界へと展開していける技術。それが阿吽の呼吸ではないかと考察されるのです。・・冒頭のタイトルでの記事は 一旦ここで締めさせて頂きます。 阿吽の呼吸の方法自体は 様々な流派があるようです。 (4)でご紹介させて頂きました 実際の呼吸方法は あくまでも個人的なオリジナルですので ご了承願います。 今後も少しずつ 変化していくと思われますが 引き続き探究をして参りたいと存じます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。阿吽の呼吸法の「意義」の部分を考察していきたいと思いますがその前に「天岩戸開き」の神話について触れさせて頂きたいと存じます。◆天岩戸開きの神話の意義は?天の岩戸開きの物語が初めて文字として記録されたのはいまから約1300年前の奈良時代初期古事記と日本書紀でした。ちなみにその50年ほど後(1250年ほど前の奈良時代末期)に弘法大師空海が誕生しております弘法大師も当然この神話をご存じであったと思われます。物語のあらすじは割愛しますが岩戸隠れしたアマテラスを再び岩戸から連れ出すために神々が外側で様々な趣向を凝らします。その様は・・多種多様なエンターテイメントがあり深い知性の発現もありまた、岩戸を開くための祭具をつくる鍛冶や八咫鏡を作る鋳造の技術もあり圧倒的な物質を破壊する技術もあり・・それらを様々な神々として登場させ岩戸の奥深くに引きこもっていたアマテラスを蘇らせる・・アマテラスの意義は光は善悪や場所を問わず総てを照らす愛そのものでありそれはワンネスの根源的な「総てを包み込む愛」の象徴とも言われております。即ち・・日本において長期間存在していたワンネスの時代およそ1万6千年前から2千年ほど前までに存在していたといわれている縄文時代のことです。◆縄文時代の始まりと終わり縄文時代の初期は地球上が急激な温暖化に向かい大陸とつながっていた日本列島は海面の上昇(約100m)により島国へと変貌しました。気候は寒冷から温暖に向かい針葉樹林から広葉樹林へと変化し豊富な食物が得られるようになり土器の開発により焼くだけでなく煮ることができるようになり木の実や魚介類も食べられるようになったことで生存率が飛躍的に上昇したといわれております。その特殊な地域性の中で約1万4千年ほど続いたと言われている縄文文化・・それほどの長期間ひとつの民族が自然と共存しながら共同生活を行い続けていてしかもほとんど武器が存在しなかった・・とするならばその頃のヒトの意識はワンネスであったというのはごく自然な考察でありましょう。そして・・縄文時代の末期気候の寒冷化による食糧(木の実や獲物)の不足により急激に人口が減少しその頃、大陸からの渡来人により稲作技術や金属の加工技術が伝えられ弥生文化・・いわゆるワンネス意識が閉じられ技術の進歩発展による自然との遊離が始まりました。そこからの物質開発・科学技術の進歩は現代に至るまでの間次第に急カーブを描くようにスピードを上げながら進捗してきました。それはあたかもヒトの精神をギリギリ保たせながらも他方、際限なく物質文明を進めなければならないとでも言うようないわば強引な進め方でもありました。ヒトの精神の荒廃はその過度ともいえる物質開発・科学技術の進展にありそれはある意味必要不可欠でもあったとも思われます。ですが・・何らかの大きな意図による物質文明の進捗は、その合格水準に至りここに時期が到来し反転したということと推察されます。そしてその事を予知しておられた聖雄聖者ここではその中のひとり弘法大師空海は1200年前にその時期が来たならばヒトが次の変容に対応出来得る為の技術として密教を残された・・密教が弘法大師により残されたその時代背景と目的について考察をしてみました。個人的な考察ではありますが多分・・最近、スピ系の多くの方々がおっしゃっておられることは大同小異このような内容なのだと思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。実際の阿吽の呼吸法は多くの武道家の方々や探究されている方々が発信されていると思われますのでここではあくまでもいち個人のマニアックな方法体験談として流して頂ければと思います。◆アウンの呼吸(表)ア~(吸う)ウ~(吐く)(※八分まで)ン~(止息)の動きの中で特にン~(止息)のところは丹田(下腹部)を腰を入れて前へ開くという感覚。ですから背筋は伸びており少しだけ弓なりの感じで丹田(下腹部)が前へ出て開いているという感じです。こうすると丹田の部位が楽になり止息した際そこにしっかりと気を落とせるというイメージです。また、リズムは3拍子か、その倍数でア~ 123ウ~ 123ン~ 123456と「ン~」を長く保ちます。この「ン~」のところは止息と瞑目と結印(印を組む)を同時に行うとさらに深く気が落ちていく感覚を得ます。※「吐く」は吐ききるのではなく 八分で止めることが大切です。◆アウンの呼吸(裏)「裏」の部分は「ア~ウ~ン~」と八分まで吐いて止息した状態からのスタートとなります。基本的に止息状態を保ったまま行うのでいわば有気呼吸ではなく無気呼吸といえるでしょう。丹田の部位をほんのわずか前へ押し出すような感覚で口は閉じたまま「ン゙~ヴ~ア゙~」と口のカタチのみ変えていきます。「ン゛~」は 丹田部に「ヴ~」は 胸部に「ア゛~」は ノドから眉間に振動を感じます。これは特に丹田部位の振動を意識しそれを胸部~ノド~眉間へ波及させていくイメージであります。この「振動感覚」がミソで振動している感覚を「ン゛ウ゛ア゛」の濁点で表現しているという訳です。「ン゛ウ゛ア゛」のそれぞれのリズム間隔は落ち着いて瞑想できる状態なら長めに日常の合間であれば短くする必要があります。但し、注意事項ですが止息の状態を長く保つと呼吸器や心臓に負担がかかり肉体的にも精神的にもストレスとなり逆効果になってしまう恐れがあります。ですからなるべく短めに「ン゙ゥ゙ア゙」で1拍子がよいでしょう。あくまでも慣れてきたら「ン゛ウ゛ア゛」で3拍子です。~~ここまでは身口意の「身」と「口」となります。身体に馴染んで習慣化してきたらさらに「意」を加えていきます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。阿吽の呼吸の考察として「始まりから終わり」⇒ ア~ウ~ン「終わりから始まり」⇒ ン゙~ヴ~ア゙という表と裏のバージョンを考案し実際に日々の生活の中で試行錯誤し続けております。阿吽の呼吸の「阿吽」は神社や寺院の参道入口にあるア・ウンのカタチを模した狛犬(実際には獅子ですが)或いは仁王像が象徴的でありそこから参道(産道)を通って一番奥にある神殿(母胎)でお参りして再び参道(産道)を通って現実界に戻る・・いわば阿吽の呼吸を通じて生と死を行き来する様すなわち産道を通じて母胎(宇宙)と3次元現実界を行き来する型示しが残されていると言えるのでしょう。またそれは単なる呼吸法(身)だけでなくア・ウンという言霊(口)とそこに在る意図(意)の連動による身口意の三密にもつながるものでもありましょう。◆子供の頃の感性の喪失海や川、山や森など大自然の中に身を置いたときの開放感や畏怖心。それは大人になってからも感じる感覚ではありますが幼い頃はさらに純粋な感覚が開いていたように思い出されます。それが年を重ねるごとにヒトとの関係性社会的なしがらみや制約人工物の中での日常生活目に見える成果やパフォーマンスを求められる社会生活・・段々と首から下の身体感覚よりも首から上の社会的存在理由が優先する世界に汚染されていくとでも言いましょうか。ヒトは人工物ではなく自然から派生した肉体を基に成り立っている訳ですからその基本となる身体感覚をマヒさせるような生活環境・生活習慣はヒトの精神の奥を空洞化させ深い空虚感を生んでいきます。これは経済的に成功しても社会的に成功しても多くの「何か」を失っているという漠然とした喪失感とでも言いましょうか。しかしさらにもっと小さい子の記憶それは・・・母胎に宿ってからこの世界に産まれるまでの記憶はいかがでしょうか。勿論覚えているはずはないのですが何かを実現したい・・何かを表現したい・・その根源的な「思念」は母胎から産道を通って表(この世界)に産まれる瞬間までは感覚として明確に感じていたのではないでしょうか。◆「習気」と「タンハー」と「思念波」個人的な考察ですがヒトの意識は表層に「習気」がありその下に「タンハー」がありさらに奥深くに「思念波」があると思われます。「習気」は生まれてからの社会生活により刷り込まれてきた規範・ルール・文化身近なコミュニティや人間関係の中で身に付いてきた生活習慣や思考のクセなどであり「タンハー」は理屈抜きでああしたい!こうしたい!という激しい渇望感その「念」が開放されるまで持ち続けている根源的な情念(波動)といえます。さらに深い意識下の無意識領域にあるのが「思念波」でこれはもはやそのヒトの存在自体を形成した大元の「意図」としかいいようがありませんが「念」というよりも波動そのものといえるでしょう。しかしそれがヒトのタンハーや習気の形成に大きく影響を及ぼしているとも考察されます。この思念波とタンハーと習気の兼ね合いバランスが極めて重要であると思われます。◆「嫌気」と「好気」ヒトは絶えず瞬間的に「嫌気」または「好気」を発し続けておりこれは理屈抜きでの好き嫌い=好悪と言えます。この「好悪」の感覚は生まれてからの「習気」から来る刷り込まれてきた好悪、権勢欲/支配欲/金銭欲/情欲などの感覚的な欲求いわば「タンハー」から来る好悪さらに「思念波」の領域に存在している好悪などがあると思われます。「思念波」の領域というのは逃れられない極限状態に置かれたとき「習気」や「タンハー」が一時的に削ぎ落された極めて特異な状態いわゆる「身心脱落」の境地に入った時に初めて感得しうる領域のことであります。ですからその領域はもはや有か無か/善か悪か/是か非か/◯か×かなどの二元的意識に分岐する直前の純粋概念・純粋意識そのものとも言えるでしょう。この領域に触れたときヒトは習気(社会的な常識や規範)タンハー(権勢欲/金銭欲/情欲)をも超えた超意識いわば使命感が芽生えそのヒトが本来持って産まれてきた資質を初めて生かし体現していくことができるということだと思われます。芸術家やアスリート、武道家クリエイターの方々は日々、プレッシャーとの闘いの中でこの思念波の領域に触れながら生来の純粋な使命感を持ち続けているとも言えます。◆思念波の領域=真我の表出前の記事で真我=宇宙思念体(思念波)の顕現とも言い換えられ、それが密教および神道の究極の目的であると記しましたがそのための行法が密教や神道に伝承され残されて来ていると推察されます。これはそのミチの専門家たる密教僧や神官だけが秘匿しているものではなく多分・・ですが多くのヒトの目につくところ至るところにそのメッセージが残されてきているということではないでしょうか。そのひとつが阿吽の呼吸と思われるのです。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。縄文時代は1万6000年前から2300年前まで続いていましたがそれは「ワンネスの時代」でありました。その後ゾロアスター教、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの二元論的要素の宗教が興りまた他方ヒンドゥー教、仏教などの輪廻転生~縁起の概念を有する宗教いわゆる煩悩からの解脱を求める信仰もアジアを中心に拡がりました。これは・・しばらくの間物質開発・科学技術の発達に主軸を置きヒトの仏性・真我を一時的に封鎖せざるを得ない時代いわゆる二元的意識・善悪二元論の世界にて物質文明を一定の水準まで発達させる意図によるものであり必要な水準に達したところで今度は主客逆転させ仏性・真我を再び表出させて急速に精神文明を開化させるという仕組みによるものと言われております。(特に神道系の教義では)多くの宗教に伝えられている救世主の顕現というものはその転換期の象徴とも言えるのでしょう。その主客逆転の際に必要となる手法技術が仏教や密教、神道の中に残され伝えられているのではないだろうか・・特に密教は弘法大師により日本に伝えられたのち中国では消失しており極めて特異な存在であり世界的にも日本固有の宗教として根付いていると言えるでしょう。◆真我=宇宙思念体(思念波)の顕現前記事にて触れました子宮から参道を通って「外」に産まれ出るカタチこの「外」に産まれ出るカタチというのが仏教でいう仏性神道でいう真我の復活のことではないだろうか・・これは真我=宇宙思念体(思念波)の顕現とも言い換えられ密教および神道の究極の目的はここに在ると推察されます。◆まさに「そっ啄の機」が訪れている・・ヒトの肉体や精神は極めて流動的・不安定でありそれがゆえに極めて膨大ないわば天文学的な多様性を生みそれゆえにあらゆる状況の変化に対応できてきたとも言えるでしょう。しかし・・ここからはヒトが産み出してきた多様性(物質文明・科学技術・人類史そのもの)をベースとした恒久的な超高度な精神文明を開いていく必要がありそのための移行が急速に行われていくと思われるのです。例えば・・料理をする時をイメージしてみると食材をひとつひとつ新鮮な状態で準備し調理器具とガスコンロ、水を用意しそこに熟練のシェフがいてはじめて一流の料理を作ることができる。それは時間との勝負でもあり火力の加減食材を投入する順序やタイミング調味料のサジ加減そして食器に美しく盛り付け温かいうちにお客様へお出しする・・すなわちその総てが準備され順序立てて行われ食材は融和融合し合い「料理」という名の芸術品に変容するということであります。いわば・・人類が興してきた文明や技術は料理のための食材であり食器であり調理の技術(の一部)であるということになるのでしょう。そして・・そこにはその出来立ての料理を心待ちにしている「お客様が存在している」ということなのです。ですからいまの時代、いまの時期はまさに千載一遇の「そっ啄の機」の訪れと言えるのでしょう。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。個人的に弘法大師の「吽字義」を題材とし阿吽の呼吸法と九字を行としてアレンジしながら実践しております。元々はADHDゆえの多動性/衝動性/注意散漫による人間関係や仕事上での生きづらさからウツを発したり面倒臭くなったり嫌気がさしたり・・そんな日々の中外側の世界ではなく内側の世界にこそ真実が在ると感じ日々探究しております。~~~~~~~~~~~~~~~~~~阿吽の呼吸を丁寧に行いながら主に丹田(下腹部)に感覚を置き特にア(吸う)~ウ(吐く)~ン(止息)というリズムを体に馴染ませてきました。丹田に体感覚を置けるようになるだけで結構、メンタルの安定といいますか首から上の意識脳とは別の首から下の感覚脳のようなものが醸成されているように感じております。「感覚」の他に身体内の波動というか「振動波」のようなものをよく感じるようになり特にリラックスしている状態では感じやすいように思われます。それとこれはまだよく分からないのですが丹田の感覚の奥底に「思念波」のようなものがたくさんありそこに同調するように意識すると社会的な常識や現実の問題とは全く異なる次元の微細波動のようなものを感じます。腹部には体外から摂取した食物を分解し取り入れていくための酵素と膨大な種類と数の細菌が存在している訳ですがこの細菌という存在が実は宇宙の思念の現われではないか・・(ここは執行草舟さんの動画を拝見して 感じたところなのですが・・) ◆アウンの呼吸は「表」と「裏」が 在るのではないだろうか・・「阿吽」というのは始まりと終わりを表わしていることは知られておりますがそれが呼吸法として古くから修験道の行者や武士に伝えられてきて今に至っているというのも意味深に感じてしまうところです。神社や寺院でも入口に「阿吽」を表す狛犬や金剛力士像も何らかの意図ありてそこにあるのでしょう。また、入口(鳥居や参門)の奥は参道(産道)であり本殿は子宮でありお参りにより神や仏に波長を合わせたのち参道(産道)から外へ新生するといういわばヒトの転生を表現しているカタチですね。別の視点で観れば・・ヒトが新生するまでは子宮の中にあって有酸素呼吸はしていない・・鳥居(あるいは参門)から入りお参りののち再び鳥居(あるいは参門)から出てこの世に新生して始めて有酸素呼吸が始まる訳です。ここが阿吽の呼吸の奥深いところと思われるのです。つまりア~(短く吸う)ウ~(細く吐く)ン~(軽く止息)の過程は生まれ~生きて~死するを意味するのですがそのあとの転生までの間すなわち参道(産道)~神殿(子宮)へお参りして再び参道(産道)から「ンギャーッ」と産まれるまでの間は息はしていない・・(当たり前ですが)すなわち・・「アウン」は現実界での呼吸(表)でありそのあとに転生~誕生までの間の呼吸(裏)があるということなのです。それは「アウン」の反対である「ン゙ヴア゙」ではないか・・何で濁点「 ゙ 」がついているかというと振動を表しているからです。ヒトは産まれ出るまでは声帯を振動させて言葉を発することはできませんのでそれまでは振動波で表現する他ない・・という訳です。アウンの呼吸をし続けている中で「ン」の止息状態はいわば「子宮に戻って居る状態」であり子宮の中にいる間は振動波で「ン゙ヴア゙」を感じるという訳です。「ン゙~ヴ~ア゙~」で産まれ出ずる「ンギャーッ」ですね。この部分がアウンの呼吸の「裏」に当たる訳です。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。◆摩利支天の真言「オンマリシエイソワカ」とは摩利支天の真言です。この真言との出会いはもう40数年前の高校生のとき当時、密教ブームがおこり私もその神秘の世界に引き込まれその際「九字護身法」を知りこの作法の最初に唱える真言として知りました。もともと摩利支天というのはサンスクリット語のMārīcī(マーリーチー)からきており陽炎(かげろう)を神格化したものといわれており実体がなく捉えられず傷つかない「隠形」の意があり古来より武士の間で深く信仰されており忍者や修験道の行者の間でも隠形術として浸透していたようです。また、戦時中においても「空襲除け」や「弾除け」の祈願として民間人や兵士の間で唱えられていたとの事です。◆陽炎(かげろう)の如く隠り身となる攻撃から身を守るのみならず存在自体が見えない「隠り身」でありここにひとつの考察が浮かんで参ります。真言密教の修験道の僧侶において修行に取り入れられていたことから外敵から身を守る降りかかる災厄から身を守るといったことだけでなく他者からの悪波動あるいは自らの発する悪波動さえも「透過してしまう」という意を含んでいたのではないだろうか・・◆ヒトのタンハー、習気をも透過する真言タンハー(Taṇhā、渇愛)は仏教において苦しみの根本原因とされる喉が渇いた者が水を切望するように際限なく快楽や存在を求める「根源的な欲望」のことです。また習気(じっけ)は過去の行為や思考が習慣やクセとして残留しているもので無意識の行動や習癖として現れてきます。この習気がヒトとの対立や諸々の問題の発生の原因となることが多くあります。いわゆる無意識のうちにヒトを傷つけてしまったり相手に誤解を与え無用な争いを生んだり。タンハーも習気もヒトの表面意識ではない領域のものであり「つい、やってしまった!」「分かっているけど、抑えられない!」といったことはここからきている訳ですね。修験道の僧侶たちも「煩悩」を断つべく厳しい修行を積んでいた訳ですがここがとても興味深いところで タンハーも習気も(煩悩も) すべてが波動(思念波)であり 生じた波動は そのまま透過していくとイメージしながらオンマリシエイソワカを唱えていたのではないだろうか・・すなわち摩利支天の真言はタンハーや習気から生じる邪気・嫌気・怒気あるいは貪・瞋・痴・慢・疑・悪見といった根本煩悩が発生した瞬間「波動」と捉え「そのまま透過していく」「それを俯瞰している」という 超克の真言ではないだろうか・・ 真言密教が伝えられてから約1200年が経過しておりますがその間、現代に至るまで多くの人々に唱えられ続けて来た摩利支天の真言・・特に修験行者の厳しい修行の中で戦国時代の武将や兵士が戦の中で明治維新後の近代日本で起こった戦時中の民間人や兵士がその渦中で極限状態での祈りと共に唱えられて来た「真言」でありそれら数多の祈りの波動は多分・・長い年月の中で「真言」を通じて日本民族の中に特殊な集合意識を形成しているのではないかと推察されます。そのよう推察の中瞑想や呼吸法と併せてこの摩利支天の真言を唱え特に阿吽の呼吸と組み合わせることで深い瞑想を体感することができると実感しております。試行錯誤の最中でありますが。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。以前の記事でも触れたことがありますが3拍子の音楽と4拍子の音楽はヒトに与える心地よさが明らかに異なっております。これはある喫茶店の記事からの引用です。三拍子と四拍子、心地よさの違い | ライブ喫茶ELANライブ喫茶ELANは、音楽好きが集まる音響設備にこだわった喫茶店です。広く落ち着いた店内で、音楽とお食事をお楽しみください。elando.jp3拍子は自然界のユラギに近いリズムでありゆったりとした癒しの効果があり4拍子は歩くリズムに近く生活リズムを整えていく効果があるというものです。もう少し深く掘り下げると3拍子の音楽は心拍数をゆっくりと落ち着かせる傾向があり緊張をほぐしていき4拍子の音楽はその規則正しい予測可能なリズムから適度な覚醒状態を維持します。以上は音楽の3拍子と4拍子の違いでした。とても深い考察であります。◆3拍子は宇宙のリズム、4拍子はヒト社会のリズムここからはごく個人的な考察になりますが3拍子は自然のリズムでありそれは宇宙のリズムでもあり二元的意識(陰陽/正否/善悪など・・)とは異なるユラギの世界観とも言えます。現代のヒトの世界に蔓延している二元的意識は物質技術開発のための方便であり本来は存在しなかった・・・ヒトに二元的意識を持たせて物質技術開発を持続的に進めていくには何らかの推進力となるモノが必要となってくる。3拍子の微妙な不規則感とは異なり4拍子の規則性はヒトの意識に予見可能な近未来を想像させさらにその規則的リズムは物事の推進を促していく・・起~承~転~結Plan~Do~Check~Actionなどはその事例であり4段階のプロセスに区分して推し進めることはそれなりに理にかなっていると思われます。他方・・3拍子はその微妙な不規則感ゆえにヒトの意識に「ユラギ」が生じやすくこれが画一的ではない自然の感覚を感じさせヒトをして落ち着かせる効果となっていると思われます。また元々3という数霊は知・情・意天・地・人ヒト・モノ・カネ短期・中期・長期初級・中級・上級立法・行政・司法資本・経営・労働など様々な概念を整理し同時にヒトの意識も整理していく効果があるようです。プレゼンのときも相手に伝えたい内容を重要なポイント3つに絞り込みその3つのポイントを軸に組み立てていくと概念・イメージを伝えやすいですね。ですから・・ややこしく感じる事柄や面倒な交渉事などは3つのジャンル3つのポイント3つの選択肢などで整理し4つのプロセス4つのステップで進捗させていくことで他者との共有もしやすくなると思われます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。「場」と「機」というテーマで綴って参りました。その中で「場」は丹田脳ともいうべき部位に感覚を置くことで醸成されていくまた「機」は身心脱落といわれる思考をそぎ落とした状態において直感を通して発現するということで触れてきました。この「場」と「機」が相まったカタチが禅でいうところの「啐啄の機」(そったくのき)といわれるものです。一般的な意味は卵の中のひな鳥が殻を破ろうとつつく「啐」と親鳥が外から殻をつついて助ける「啄」が同時にピタッと一致する絶好のタイミングとなりますが、禅の視点からいうと弟子が悟りを開くことができる段階に達したその瞬間に師匠が悟りのきっかけを与える事の例え。転じてものごとを成し遂げるための得難い機会即ち内側からの努力の積み重ねだけでは超えられない限界も外側からの絶妙なタイミング(機)により突破できるその「機」をつかむことを言います。ヒトの成長(限界突破)は「場」の醸成と「機」を掴むことの連続でありそのいずれが欠けても無し得ないということであります。そして個人的な見解ですがそのためには首から上の記憶脳で行う「努力精進」だけではなく首から下の丹田脳で行う「場」の醸成と「機」を掴むスキルがあってはじめて成し得るものだと思われます。そしてこの「場」の醸成と「機」を掴むための手法が阿吽の呼吸を主軸とする瞑想=「身」と真言や祝詞などの祈りの言霊=「口」と究極の「吽字義」を基とする=「意」の「三密」であると考察しております。多分・・ここから先の未来は記憶脳での物質的対症療法的対応だけでは超えることのできない限界が存在しそこを超えるためにはどうしても丹田脳の活性化との融合という流れは避けて通れない・・個人的にも社会的にもそのような現象を目の当たりにしていくことになると推察しております。ADHDの多動性を生かすための考察として同じテーマで(1)から(6)まで内容があちこち飛びながらも縷々述べて参りましたが同じADHD気質を持つ方々に何らかのご参考になれば幸いであります。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。◆「真髄」は存在しない!?これはこのブログテーマから若干外れたマニアックな内容となりますが・・何事においても「真髄」と言われるものがありそれは技術的なものであったり精神的なものであったり確かに存在しますが同時に全く存在していないとも言えます。これはある武道家の方の生き方を考察したもので私個人の見解が多分に含まれるため事実とは異なる恐れもありますのであくまでも考察のための例え話として受け取って頂ければと思います。この方はあるミチの指導者としてそれこそ何千人もの後進を育てその中にはのちにそのミチの幹部となっていった多くの人材も含まれておりました。居合の達人であり剣道も相当上位の段数を保持しておられたと記憶しております。多くの知識人や著名人との交流もありその中には この方の魅力に感化されそのミチに賛同して行ったヒトも多くおりました。武士道精神を掲げその気骨はまさに愛・信・義そのものでありわたしもまたその方に魅了されたひとりでありました。ただ・・その方の指導方法はいわゆる武闘派そのもので コブシで鍛えるといった姿勢がありました。勿論暴力で従わせるということではなく指導の中で厳しい言葉をかけながら育てるというスタイルでありました。ただそこにはご自身の生き方そのものが絶えず限界突破をし続けていく全力を尽くし続けていくという姿勢であったためそれを後進にも求め続けていたという点が強く印象に残っております。また「葉隠」を好み「武士道とは死ぬことと見つけたり」を地でいくような方でありました。ただ・・ご自分なりの「武士道精神」を表現しそれを後進へ与えようとする余り紙一重で「何か」がずれておりそれは指導を受けていた後進のヒト達も暗に感じ取っていてそこに指導を受ける側に「表」と「裏」を作る結果になっていったという訳です。つまり・・「武士道精神」というものの「表面的な礼節や態度」を厳しく指導する余り「武士道精神の本質的波動」が伝わらなかった・・形骸化したもののみが残されたという事例です。この事例は師弟関係だけでなく企業や家族あるいは国家や行政の中においても同様の事があり得ると思われます。これはいわゆる原始仏教や原始キリスト教においても同様のことが生じてきたと想われます。何事も当初は純粋な一途な想いから発してもそれが時間の経過と共に言葉による概念化が始まり当初の発願からくる波動は減衰し言葉による概念のみとなってしまう・・いわば卵の中身自体が消失して卵の殻だけが残るというような現象が起きて来る・・これは一体どういうことなのだろうか。◆純粋概念は象徴化して消失する!ヒトが自身の内面から湧き上がってくる感情の波動を言語化しようとするとき 波動を概念で置き換える作業が 行われていると思われます。これは波動が次の瞬間意識上から消失してしまうのを防ぐための行為であり波動⇒概念化⇒言語化⇒表面意識への定着そして記憶となりその記憶を呼び起こすためにシンボリック(象徴化)がなされていきます。例えば・・異性に対する恋心が波動となって生じそれが「好きなのかもしれない・・」と感じ互いに惹きあい始め次第に「愛し合っている」と認識しさらに「もっと深くムスビ合いたい!」と感じるようになりそれが「結婚」というシンボリック=象徴化へとつながっていきます。結婚=愛の証しという象徴化=シバリが生じる訳です。これは波動が象徴化する流れの例えであり実際には無意識領域からの「波動」が「概念化」し概念が「言語化」され更に「表面意識への定着化」そして「象徴化」に至るまでにはほんの一瞬ほとんどマバタキする位の時間で成されていると思われます。マバタキは約「0.3秒間」ですので多分、その位のスピードではないかと推察されます。そして・・・象徴化した時点でその直前まで存在していた流れ即ち「表面意識への定着化」「言語化」「概念化」そして元々の無意識領域から発せられた「波動」そのものも消失してしまう。これがヒトの意識は刹那的であるといわれる所以でありましょう。いわば初期に生じた純粋概念いわゆる無意識領域からの波動は概念化言語化表明意識への定着を経て象徴化したのち消失してしまう・・これが「真髄」と言われる「波動」そのものが「象徴化」というカタチのみとなりそれは元々の「真髄」=「波動」そのものではないということだと推察されるのです。長々と述べて参りましたがこのあたりは哲学的なものになってしまいますのでこのへんで区切らせて頂きます。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。ADHDの方が日常よく行っていると思われる工夫に「書き出して整理する」というものがあります。これはその時の感情や置かれている状況から刺激を受けてランダムな記憶の断片が意識上に上がって来るためそれを書き出していくことで改めて物事を整理する「場」を作っているということと思われます。ヒトの意識は本来泡雪あるいは泡粒のようなもので外から或いは感情からの刺激に対し絶えず反応し続け記憶の断片を表出し続けているため強く意識しない限り次の瞬間意識下に沈んでいってしまいます。意図的に意識して意識上に「思考」として定着させて始めて「次の行動の動機付けになる」と思われます。ADHD気質の場合様々なアイデアやヒントもまたその中に含まれて表出してくるのでマメにメモを取る習慣をお勧めします。わたしの場合はスマホのKEEPメモを利用しております。仕事関連はメモ用紙にランダムに書き出しそれを 全体で眺めながら別のメモに 時系列・優先度を勘案して 今日・明日・今週の行動項目に 書き直していきます。このメモがあるだけでだいぶ頭のメモリが軽くなりそれは例えて言えば信号機のない交差点で左右を見ながら旗を振って交通整理をしながら前進していた状態から信号機が出現しその信号機に交通整理を任せておいて自分は目の前のことに注力しひとつひとつをクリアしながら前進していける「安心感」につながっていきます。実はこれと同じことを自分の意識上にのぼる前の「意識下において 交通整理を行っていく機能を蘇らす」というのが前の記事で述べてきました「丹田脳」という概念であります。意識上にのぼってこないザワザワ感焦燥感というものは まさに意識下での交通整理を要している状態と言えます。意識下が整理され必要な情報が必要な時に必要なだけ意識上にのぼってくれば記憶脳はパニックにはならずあるいは一時的に飽和状態になったとしてもすぐに整理された情報であることを察知し安心感が広がっていきます。これはほとんど瞬間的な動作であり「言語化以前の情報」でありこの丹田脳と記憶脳の連携が絶妙に機能している状態こそ「直感が働いている」ということになります。よく最近思考が停止して頭の中がシーンとした状態に到達したヒトの話しがWeb上でも散見しますがそれらのヒト達は異口同音に「思考が停止していても 必要なことは 必要な時に 必要なだけ意識上にあがってくる」というようなことをおっしゃっておりますがこれはそういう境地に至るためにそのヒト固有の何らかの訓練をしていたということと推察されます。ネドじゅんさんもそうですね。
つたないブログにご訪問頂き真にありがとうございます。◆ADHDは丹田脳を活性化しやすい体質ごく個人的な考察になりますがADHDは丹田脳を活性化しやすい体質であると思われます。これは決して揶揄や希望的観測ではなくそれが真実であると実感しているということなのです。そしていかに丹田脳を活性化していくか・・呼吸法だけでなく全体を意識しようとする宇宙観をも体得していくそれが吽字義の本質であると推察されます。吽字義は吽の一字に密教の真髄が含まれているというものでそれを別の表現で表わしたものが「三句」即ち 菩提心を因とし 大悲を根とし 方便を究竟となすであると言われております。この三句の解説は過去の記事で触れておりますので渇愛致しますがまた阿吽の呼吸法についても過去の記事で繰り返し述べさせて頂いておりますのでここでは丹田の感覚を意識し続けるためのポイントということで触れさせて頂きます。あくまでも個人的経験からの感覚知によるものなのでご参考程度とされてください。◆下腹部丹田を前に開く感覚を意識する瞑想を行う際半跏フ座という姿勢をとり瞑想用の丸い座布団にお尻の後ろ半分のみ乗せ前半分は床に落とした状態で背筋を伸ばすと下腹部の丹田の部位が少し前にせり出すような体勢になります。すると下腹部が前に開いたような感覚を得ます。この状態この感覚を意識的に行うというものです。阿吽の呼吸法や目を閉じての瞑想を行ってもこの丹田部位が開いた感覚があってはじめてそこにある種の「場」が生成されていく・・つまり呼吸法や瞑想は大地に降り注ぐ雨や太陽の光であってそれを受け取る大地が在ってはじめてそこに「タネ」を植えられるというイメージです。この丹田部位を「開いた」姿勢を取り軽く止息した状態をきキープするといわゆる集中した状態が生じそれは例えば書道で筆を半紙に落として書いている状態針に糸を通そうとしている状態車を運転していてカーブや曲がり角に差しかかたときの状態など動作に集中している状態となります。この姿勢は背筋を伸ばし心持ち弓なりを保つことで丹田を前へ開く感覚を持続させることにつながります。これを意識して行うことは= 丹田脳を動かす ことにつながりそこに呼吸法や瞑想を加えることで丹田という土地を耕し養分を行き渡らせることにつながって参ります。まずは「場」づくりから始めるということになります。