(現場での事実を記した碑)
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これは 「 アライメント屋の うろ覚え 」
により 書いてますので
「 アライメント屋の
脚本にてのフィクション 」
くらいに思ってください
もし御興味が出れば
きちんとした文献にて
事実を御確認下さいね
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凄惨な 切腹を 途中で止められた
「 その後 」 です
本人たちは 一旦 本堂に戻り
「 待機 」 と なりましたが
到底 納得がゆきません
「 死ぬなら 一思いに
死んでしまいたい 」
何故 こんな
「 生殺し状態 」 に (怒)
上役も
只今 日本側の 主だった役人が
異人側に 行っておる
「 今しばらく お待ちくだされ 」
結果は やはり
「 フランス側からの
残り九名の助命の嘆願 」
となりました
ここから 駕籠で 大阪に
引き上げることになり
駕籠に乗る際
一二人目の 「 橋詰 」 は
舌を 噛み切って 自決を図ります
おそらく
「 おまえたちの 適当な都合で
振り回すんじゃねえ
好い加減にしろ !! 」
だったんでしょうねえ ・・・
大阪に戻ると 変わらず
「 細川 熊本藩 」 と
「 浅野 広島藩 」 の 両藩は
九人を それは それは
手厚く もてなします
「 細川 熊本藩 」 は
あの 「 赤穂浪士 」 を
切腹の場まで 預かり
最大限の礼を 持って もてなした
誇りある 藩です
大阪滞在中は 最高の礼にて
何不自由なく 過ごします ・・ が ・・
その後 日本側でも
さあ 困った ・・・・
この後 どうするか ???
土佐藩では
こいつら どうせ
死んじゃうんだし ・・ と
「 士分を与えた 」
んですけど ・・
一応 対外的には
「 罪人 」 で ・・・・
けど 国内では
「 日本を救った英雄 」
「 赤穂浪士の再来 」 と
大人気です
さあ どうしよう ・・・・
そこで 出たのが ・・・
「 死刑は 取りやめ
ちょこっと 褒美あげる
希望すれば 子供は
兵として雇ってあげる
袴 帯刀は 許す
給料は2人扶持
4石とする 」
けどね ・・・・
あんたたちは 一応
「 士分 」じゃなく「 罪人 」として ・・
故郷の田舎に 「 流罪 」 ね
「 悪う 思わんでね ~
じゃ そ ~ ゆ ~ ことで
よろしく ~ ♪ 」
ここで 「 橋詰 」 は
「 到底 納得がゆかぬ 我々は
士分扱いにして切腹させるから
国の為に死んでくれ と言われ
次に フランスが言うから 中止
となった ならば 無罪となった
今も 「 士分扱い 」のまま
であるのが当然であろう 」
という
至極もっともな主張をしましたが
「 死んでいった十一人の
苦労を考え こらえてくれ 」
と なんだかわからん説得をされ
故郷に 戻りました
八月に 明治天皇が即位され
その時 「 恩赦 」 となり
「 流罪扱いを解かれ 」
病死していた 一人を除く
八人は 晴れて
「 普通の兵士扱い 」
となりました ・・・・ が ・・
最後まで 望んでいた
「 士分 」 とは
ならなかったそうですわ
地元 「 堺 」 の
約150年前の 大事件でした ・・・
「 完 」
この 事件 割と 時代が新しいので
文献や証拠の物品が
結構 残っています
堺の図書館では
「 堺事件の資料が見たい 」
といえば
「 結構な量 」 が 出てきます
妙国寺では 数百円 払えば
「 箕浦猪之吉 」 が
切腹の時に 使った
「 短刀 や 三宝 」 を
見せて頂くことが
出来ますし
織田信長が 安土城に持って帰り
「 毎夜 帰りたいと言って泣く 」
ので 家来に切りつけさせたら
「 血を吹いた 」 ので
不気味になり 妙国寺に返した
という 有名な 「 蘇鉄 」
も 見せて頂けます
御興味在れば うちに来た
帰りにでも どうぞ ( 笑 )