(現場での事実を記した碑)
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これは 「 アライメント屋の うろ覚え 」
により 書いてますので
「 アライメント屋の
脚本にてのフィクション 」
くらいに思ってください
もし御興味が出れば
きちんとした文献にて
事実を御確認下さいね
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「 うろ覚え 堺事件 」 です
時は 慶応4年 1月の11日 (旧暦)
幕末のゴタゴタに起こった
戊辰戦争がらみで
備前藩の数百人の藩士たちは
今の岡山から
(備前藩ですから)
西宮に向かって
歩を進めていました ・・・・
この時 たまたま 神戸に
新居を 物色に来ていた
欧米の偉い異人さん達が
うろうろしてました
当然 ヤバい時代なので
警護の兵たちも いっしょです
場所は 「 三宮神社近辺 」
だったそうですが
当時は 海岸が近かったようですね
これが 悲劇の始まりとなりました
警護のフランス人水兵は
売店でのちょっとした用事を済ませ
戻ろうとしたとき
まさに 「 備前藩の軍隊 」 と
遭遇してしまいます
「 ヤバい 戻ろう ! 」
この時
「 生麦事件と同じ過ち 」 を
犯してしまいます
そう 「 隊列の直前を横切る 」
「 大きな無礼 」 を犯します
これは 「 備前藩 」 に とって
「 許すことのできない無礼 」 です
正しくは
「 隊列が通り過ぎるのを
かしこまって待ち
通り過ぎた後に
後ろを通る 」
のが 正解です
これ 「 異人で知らんかった 」 は
通らんと思います
フランスでも
「 進軍する軍隊の
直前を 横切る 」
なんてことは 許されない筈ですわ
やはり 「 蛮国 日本 」 は
舐められとった んでしょうね
これ 横切った 水兵は
「 銃ではなく 槍 にて
軽傷を負わされている 」
ことを考えると
やはり
「 直前を走って横切った 」
んだと思います
槍で 突かれた水兵たちは
拳銃にて応戦しようとします
これを見た 備前藩側も
銃にて応戦
「 ちょっとした 市街戦の様相 」
となります
ただ ・・・・
本来であれば
ちょっとした警護の兵と
「 数百人単位の備前藩の軍隊 」
が 交戦すれば
相手にならんと 思うのですが
双方 ある程度 撃ち合いますが
「 銃撃戦での死傷者ゼロ 」 で
フランス側は おそらく
「 ハンドガン 」 で
距離が在れば 当てるのは
難しく「 ただ 外れた 」 のでは
無いかと 思いますが
備前藩の鉄砲衆は
1発も当たらず はるか上の
「 たなびいていた 旗 」 に
バシバシ当たってたそうですわ
自分が考えるに
このくらいの時に
出来たばかりの
「 よちよち歩きの新政府 」 より
各藩に
「 なるだけ 異人と
もめごとを起こすな 」
って 通達が出てたようなので
射撃は 多分 「 威嚇 」 で
当てるつもりは無く
また 「 腕が悪い 」 と
舐められるのも 癪 なので
「 故意に 旗を 狙った 」
のでは 無いかと 考えますね
もし フランス側の ハンドガンが
当たって 備前藩側に
死者でも出ていれば
異人さん側は
「 全滅の危機 」
だったかもしれません ・・・・
ただし この後 激怒した
「 異人さん連合軍 」 は
停泊していた軍艦より
兵をかき集め
追撃して 生田川付近で
またも 銃撃戦 を
行ったようですが
そのときも
「 お互い 死傷者ゼロ 」
だったようです
こんときゃ 少なくとも
「 異人さん連合軍 」 は
「 バリバリの本気 」
だった筈 なので 双方
「 ほんとに へたくそだった 」
のかも しれませんが ・・・
この事件は 槍で フランス兵に
軽傷を負わせた
備前側の藩士が
「 約 1か月後の 慶応4年2月9日 」
に 切腹して 解決となります
また 間の悪い事に
銃撃戦のわずか3日後
ここを通った 何も知らない
「 土佐藩の重臣たち 」 が
(これ 覚えておいてください
「 土佐藩 」 と いうことが大事です)
天皇陛下から預かった
大切な 大切な ・・
「 錦の御旗 」 を
殺気だった 連合軍の検閲で
「 取り上げられる 」 という
世紀の大失態を 犯します
これは
初代総理となる 長州の
「 伊藤の博ちゃん 」 達 が
すぐ 間に入り
さすがに 返してもらっていますが
土佐藩としては
「 はらわたが煮えくり返る思い 」
だったでしょうね ・・・・
ここまでが
「 堺事件前夜 」 の 状況です