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「 鹿児島 」 です
 
今まで 来たい 来たいと思いながら 
 
なかなか 機会が無かったのですが 、
 
今年は 念願叶い 連れてきて貰いました ( 喜 )
 
大河ドラマもありましたので
 
「 旬 」 と言えば旬 でしょうが ・・・・
 
自分は 「 西郷隆盛 」 ・・・ あまり良く知らんかったです
 
自分の中では ・・・ 「 西郷隆盛 」 は
 
今までは 「 西郷従道 のお兄さん 」 っていう認識でしたわ ・・・
 
「 西郷従道 」 は 日本海軍の「 初代海軍大臣 」 で 
 
あの 「 山本権兵衛 」 を登用し 、
 
さらに 「 信じて登用した限り 」 は
 
自分は口出しせず、思う存分 手腕を振るわせ 
 
「 失敗すれば 自分が責任を取る 」 って姿勢で
 
現在までを含めた 「 世界最高のリストラ 」 を成し遂げさせ
 
「 日露戦争での 世界の歴史上でも 
                     例を見ない 日本海海戦の大勝利 」 
 
を導いた
 
「 日本を 植民地となることから 救った大偉人 」 
 
って認識ですけど
 
お兄さんの 「 西郷隆盛 」 は
 
今までは「 長州に 坂本竜馬通じて 武器売ってあげた人 」
 
くらいの認識でしたわ ( 苦笑 )
 
で 、 なんで ここ 来たかったかというと ・・・・
 
「 日露戦争 」 より遡り ・・・・
 
「 日清戦争 」 も 通り越して ・・・
 
「 薩英戦争 」 が行われた現場 を 見てみたいっ! 
 
てのがありまして ( 笑 )
 
まあ 、 最初は 地元の 「 堺事件 」 に興味を持ち
 
その時の  土佐の 「 山内容堂 」 
 
( 藩主は直前に豊範に譲って隠居扱い )の
 
あまりの 「 ふがいなさ 」 に 頭に来て ・・・
 
まず 、そのいきさつを めちゃくちゃ簡単に言うと
 
最初に 、 いくつかのゆき違いから
 
そのとき 堺を守護していた 土佐藩藩士と 
 
「 上陸したフランス軍艦の乗務員 」 が 銃撃戦になる
                                        ( フランス側 11名死亡 )
 
このことで 
 
「 フランス側 」は 
 
「 在阪していた諸外国 まで巻き込んで 」 
 
日本側に 「 強硬に抗議 」
 
まだ 生まれたばかりの 「 日本政府 ? 」 は 
 
対応できずに うろうろする ・・・
 
( 要望には 「 土佐藩主が 軍艦まで直接 謝りに来い 」 
                                                  と言うのまで あった )
 
当の 「 土佐藩 山内容堂 」 は  
 
責任かぶりたくないので のらりくらり逃げ回り
 
めんどくさいので、 結局 「 部下をすべて処刑する 」 という 
 
最低の判断をしますね
 
「 自分の知る限り最低のバカ殿 」 ですわ !!!
 
結局 
 
「 土佐藩は 賠償金を払え 」 → 明治政府が払った
    ( 15万ドルだって ・・・・ 
                            ネットで調べると ・・・ 
                     今の価値で 22億5000万くらい ? 
                                  重傷者 、 軽傷者も いるので 死者には
                                          一人 約 1億8千万くらい ですかね ? )
    
「 土佐藩主は直接 謝りに来い 」 
 
→ 容堂の次の「 当時の藩主 、山内 豊範 」 が謝った

「 王族も 直接 謝りに来い 」 
 
→ 「外国事務局総督 山階宮晃親王 」 が謝った 
 
「 土佐藩士は 港をうろうろすんな!!」 → 了解
 
ここまでは、 当時のパワーゲームからすると 
 
しょうがないのかなあ ? って 気がしますわ・・・・
 
日本側にも 相当な落ち度が在りますし ・・・・ 
 
ただ ・・・・
 
「 発砲者全員 目の前で死刑 」 
 
これは 「 絶対に飲むべきでは無かった 」 ですわ !!!!
 
こんなもの飲んじゃえば 「 軍隊は軍隊で無くなる 」 からですわ
 
これは 「 当然 当時のフランス側も理解している 」 はずで
 
指揮官が 「 発砲 」 を命じて
 
兵が 「 発砲しなければ 」 それこそ 「 軍法会議ものです 」 
 
兵とは 「 指揮官の命ずるまま動くように訓練されています 」 
 
また 、 現場で それぞれの兵が 「 自分たちの思うまま 」
 
「 撃ったり 撃たなかったり 」 すれば 、それは 軍隊ではありません
 
もちろん 
 
「 フランス側も 慌てながらも できる限りの応戦 」 して 
 
日本 ( 土佐 ) 側にも
 
軽微な被害も出ています
 
ここで 「 兵にまで 責任を負わせる 」 のは、
 
どこの国であっても 「 おかしい 」 筈です
 
涙を呑んで 
 
「 指揮官の処罰 」 ( 当時2名 ) なら 、まだ判ります
 
「 山内容堂 」 は 
 
正直 現場の兵など 「 ど ~ でもよかった 」 んだと思います ・・ 
 
「 バカ 」 だから ・・・
 
「 こんなもんを 殿さんに持ってた 土佐藩士 」 ・・・ 
 
気の毒ですわ 
 
で 、 同じようなケースで この数年前に
 
「 生麦事件 」 というのがありまして ・・・
 
この当時、 もう 参勤交代は そんなに
                      派手に することは無かったようですが ・・・
( ただでさえ金かかるのに、 
                    派手にしても 見栄以外 ほとんど 実利が無い )
 
参勤交代で 江戸に上る薩摩藩の 「島津 久光公 」 は
 
「 幕府に対する威示行動 」 の意味合いも兼ねて
 
ことさら立派な 参勤交代の行列をしていたそうです
 
横浜で こんな参勤交代を見たことの無い 
 
異人さん4人 ( 1名は 婦女子 )が
 
物珍しさもあったのでしょう 
 
「 馬に乗ったまま 」 近づいて 、さらに 行列を乱してしまい
 
( 知らなかったとはいえ 、大変な無礼です、 
              本人たちにも 王侯クラスの行列と気づいた筈 ・・ )
 
一斉に切りかかられ
 
「 1名死亡 、 2名重傷  、 
          婦女子は 髪と服の一部を切られたのみで 無傷 )
 
おそらく 「 島津 久光公 の近くを警備する 腕利きの隊士 」 が
 
「 一番動きの鈍い 着飾った女性 を 斬り損なう 」 
 
ことは考えにくく
 
「 女性 」 には やはり 
 
「 手加減して切りかかったのではないか ? 」 と思います
 
この時も 、「 強硬に抗議されて 」
 
「 犯人の差し出し 」 
 
「 賠償金の支払い 」 
 
「 島津 久光公 の謝罪と処罰  」 
 
を要求したと言われていますが
 
まず 幕府を脅して 賠償金をせしめた のち
 
今度は 
 
「 薩摩に直接乗り込んで 脅して 
                      さらに 金 むしって 謝らせてやろう 」
 
と  軍艦7隻で 乗り込んできます
 
しかし 、さすが 「 薩摩の島津 久光公 」
 
「 話があるなら こっちに来い ! 一応は聞いてやる 」 と
 
思い切り 高飛車に交渉
 
使節が来ても 
 
「 思い切り ビビらせろ 」 と 
 
玄関でも 「 ここで 控えぃっ !!! 」
 
廊下でも 「 ついて参れっ !! 」 と万事 このような調子で
 
「 島津 久光公 」 は 上の方から 「 いかめしく 」 のぞみ
 
「 イギリス側 」 が 要旨を述べると
 
「 あの時 よう解らん浪人が乱入してきて 
                    勝手に異人を斬って 逃げて行った 」 んで
 
「 こちらも 迷惑しておる 」
 
なお 「 下手人は 現在 探しておるが いまだ不明 」 と
 
「 なめきった 対応 」 を したそうです 
 
( 当然 久光公 みずからは  お声がけは しませんよ )
 
「 御殿様が ぶれない 」 ので
 
「 家来もぶれません 」 
 
そのあと薩英戦争となり 被害も出ますが
 
少なくとも 「 自分の御殿様 」 から 
 
「 めんどくさくなったから 責任取って 死ねや 」 
 
といわれた家来はいませんね
 
なので 自分は 有名な 名君として名高い 「 斉彬公 」 より
 
「 島津 久光公 」 の方が 好きなんですわ ( 喜 )
 
で、 自分は 「 薩英戦争 」 の舞台と 
 
「 島津 久光公 」 の 御住まいを
 
一度見てみたかったんですわ
 
で 日程の関係で まず 指宿方面に ・・・・
 
途中 ・・・ 小さいけれど 何か気になる 小さな神社
 
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鹿児島にあるけど 「 宮崎神社 」 さんに  お参りして
 
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何か 雰囲気が在ります
 
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成り立ちは ・・・
 
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だそうです 
 
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通り道に ・・・・「 巨大な原油タンク 」 があり ・・・・
 
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そこには懐かしい販売機が ・・・・
 
買おうと思いましたが 「 在庫は空 」 で ・・・・
 
これ 「 現役 」 だよなあ ・・・ 
 
もしかして この型では 「 日本最古 」 だったりして
 
途中 「 玉手箱 」 があるという 「 枚聞神社 」 に寄り
 
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「 宝物殿 」 で 玉手箱を 見ましたが ・・・
 
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刀も ・・・・ ん ???
 
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ボロボロです ( 泣 )
 
これ 、 ひょっとして 寄贈されたときには
 
「 ピカピカ 」 だったような気がする 
 
「 放置して 数十年の間に 朽ちてしまった 」 ような感じですね
 
少なくとも きちんと 
 
定期的にメンテしてたような気はしませんね ・・・・
 
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「 開聞岳 」 です
 
どこにあるかというと ・・・ 南の端で
 
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ここです
 
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ここから ・・・
 
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よく見えます ( 笑 )
 
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「 黄色いポスト 」 です
 
有名なんでしょうね 、 自分 鉄道は そんなに詳しくないですけど ・・
 
そこから さらに先へ・・・・ 長崎鼻です
 
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う ~ ん ・・・ うちなら 年間 、 何日開けてられるだろ ・・・・
 
奥に進むと
 
ここ 「浦島太郎伝説の地 」 なんですって
 
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竜宮城です ( 笑 )
 
 
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自分 これ見てると
 
「 浦島太郎 」 は 「 流れ着いた船乗りの朝鮮人 」 を助けて
 
御礼に 「 大きな亀のように見えた船 」 に乗せてもらい
 
大陸 「 朝鮮 」 に連れて行ってもらい
 
そこで見た 南国風の鮮やかな建物の数々を
 
「 この世のものでは無い 」 と感じ
 
「 歓待して頂いた 鳴けるが話せない 
           ( 朝鮮語ですからそう感じた ) 娘さんたち 」 を
 
「 海 ( 魚 ) の化身 」 のように感じたのでは ?
 
さらに 「 助けた朝鮮の船乗りは 相当な猛者 」 で
 
「 素人が 一人で 船で日本に帰るなんて無理だ ! 」
 
と 「 相当 に引き留めたのでは ?」 と考えます
 
それでも 、帰りは 「 玉手箱 」 のような
 
「 ひときわ 小さい船 」 を頂いて
 
今度は 「 素人の自分ひとり 」 で
 
「 難儀しながら航海して 」 日本に帰ったのでは ?
 
また 、 そんな状態で 元の自分の故郷に帰れるはずもなく ・・・
 
例えば 鹿児島を出港して
 
帰ってきたのは 佐賀県あたり ・・・・
 
なんてのも 容易に想像が付きます
 
そうなると ・・・・
 
故郷に帰ってきたのに ( 何とか日本語が通じることで判る )
 
「 知り合いもおらず 風景も違う 」 のも 納得がいきますわ
 
これが 「 浦島太郎の真実 」 かもね ~
 
こうして 2019 元旦は 更けてゆきました ( 笑 )

 

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