奈良の興福寺にある阿修羅像は、
八部衆と呼ばれる八体の仏像のうちのひとつです。
…八人のユニットのセンターみたいなものでしょうか(ちがうわ)
八部衆メンバー
阿修羅像(あしゅらぞう)
五部浄像(ごぶじょうぞう)
沙羯羅像(さからぞう)
鳩槃荼像(くばんだぞう)
乾闥婆像(けんだつばぞう)
迦楼羅像(かるらぞう)
緊那羅像(きんならぞう)
畢婆迦羅像(ひばからぞう)
この「乾漆八部衆立像」は、災禍をまぬかれて、
ほぼ1300年前当時のままの姿を残す奇跡の仏像です。
「西金堂本尊釈迦如来像」の周囲に、安置されていた像で、
もともとは古代インドの神々でしたが、
ここでは仏教の守護神と位置付けられています。
八部衆は、仏を守るため甲冑に身を包むなど戦闘モードなスタイルです。
ですが、阿修羅像はなぜか八部衆の中で唯一、甲冑を付けていません。
胸飾り、肩から斜めに布をかけただけ、ブレスレットも付けています。
強さより、美しさを感じさせる像です。
堀辰雄の随筆にこの阿修羅像の姿を見事に表現した一文があります。
丁度若い樹木が枝を拡げるような自然さで、
六本の腕をいっぱいに拡げながら、
どこか遥かなところを、
何かを堪えているような表情で
一心になって見入っている
阿修羅王の前に立ち止まっていた。
なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。
~「大和路信濃路」堀辰雄
優雅にダンスを踊るような手は、
ほっそりと美しく、か弱そうですらあります。
少年のような純粋無垢な表情で
じっとなにかを探し当てようとしているかのようです。
阿修羅は本来、古代インドでは戦いの神。怒りの表情が普通です。
しかし興福寺の阿修羅像は愁いを秘めた顔をしています。
どこか遠くの一点を、
愁いを秘めた眼差しで一身に見つめる少年のような阿修羅。
胸の前にひしと合わせた手、
何かを訴えんとする切実さと、美しさを内包した腕の動き。
私には、
「どうして僕たちは、戦わなくてはいけないの?戦う以外に何か方法はないの?」
と訴えているように見えるのです。
本当に戦いたい人など、
どこにいるでしょう。
なのになぜ、戦争は終わらないのでしょう。
阿修羅の悲し気な顔を見ると、
そう問いたくなります。
戦闘を象徴する八体の仏像のリーダーは、
武装を解いて、遥か遠くの平和を手繰り寄せんばかりに一身に見据えています。
こんなリーダーが世界にいたら、と思い、ふと立ち止まります。
そして、
ひとりひとりの胸の中に、すでにこの阿修羅のような姿をした心が、あるのではないかと探ってみたい思いがするのでした。