もうちょっと若い時は過去なんて振り返らない!と思っていたのだが売り上げも伸びが期待できなくなり新規展開もままならない状況になってくると先ばかり考えるという勢いが無くなってきた^_^;
となると、今までを振り返り、なかなかいい人生を辿って来てるじゃないかと自画自賛してみるのも悪くないなと(*^_^*)
誰も評価してくれるもんでもないからね^_^;
それでも間接的に自分の評価を耳にしたりすると嬉しいものだ。
山陰でのCM制作も14年と長くやっている。当初は鳥取県内スポンサーのCMは殆どうちでやっていると言われたものだ。実際どの程度だったかは定かではないが8~9割は作っていたのではないだろうか。
そういった独占という意味では大阪で3DCG映像をやっていたときも開業当初は西日本で初めてのエンターテインメントCGプロダクションということもあり独占状態だった。実際九州や名古屋からも発注があったりした。
何よりもその当時はバブル絶頂期。何やっても儲かる仕組みでもあったと言える。そんな状況だったので背伸びして数千万のワークステーション導入してゼロから始めるといった冒険が追い風で出来た。今では怖くてやれないようなことだ。そしてあっという間に償却できるという市場の勢い。
さすがにバブル弾けて勢いは徐々に右肩下がり。1988年に大ジャンプしてスタート。2003年に大阪から撤退という流れになった。
撤退時には貯金こそあまりなかったが借金はゼロのまま鳥取にUターンした。
栄華な時代は短い。バブル真っ只中にいるときも意外に冷静でいずれ山を越えて下るだろうなと気持ちの準備はしていた。
なので撤退する理由は今のままのハイソな生活を維持するには厳しいだろうと。かといって生活レベルを縮小して大阪にしがみつく理由は無いなと、割に簡単に撤退を決めた。今考えても英断だったと思う(笑)
Uターン当初は今のような仕事をやる予定ではなかった。というより何をするなんて全く決めておらずとりあえずどっかに就職するかということで代理店などにも声をかけてみたがいい歳こいたオッサンを中途でというのは難しかった。そして一時的に親戚の会社に籍を置いていたが半年ほどでやめて独立して今の状況がある。
開業当初はやはり蓄えはわずかで前の会社で購入したパソコンやCGソフトをリースごと引き受けて使っていた。
VTRを導入するのもビクビクもので、中古のベーカムデッキを40万円(定価200万)で導入したりしていた。
しかし予想以上に仕事は増えていき、初年度からそこそこの売り上げになり、そこから怒涛の設備投資が始まる。
こうして考えてみると大阪ではバブルと言いながらも自分で経営していたわけではないので給料制。売り上げはバブルなりだったが実入りは普通のサラリーマンよりは十分に多かったが、自由になるお金という意味ではUターンしてからの方が大きかった。やはり自営というのはリスクも伴うが実入りがすごいなとつくづく実感したものだ(笑)
高校卒業して大阪のデザイン専門学校に行き、そこでコンピューターによる映像制作に出会う。
当時は大学の研究室などでしかやっていなかったコンピューターグラフィックス。そんな夢のようなツールで飯が食えるようになるまでには10年くらいの下積みはあった。いろいろやっていた。下積みとはいえ、遊び半分な感じだったので楽しかった。収入が少なかっただけだ。
デジタル映像の進化を創生期から見てきたわけだ。そりゃぁ、下手なSF映画よりも面白い。
毎年毎年新しいものが開発され、スピードはどんどん速くなり価格も安くなっていく。
生み出される映像もどんどん進化していく。
さすがに2000年を超えると付いて行くのが厳しくなった^_^;
それでも今はローカルCM制作なのだが、当時の技術はところどころに活かされている(#^.^#)