昔、会津に行った時、飯盛山に寄った。

その時ふと目に飛び込んで来たのが『弁天様』である。

もう唐突に、琵琶を持った弁天様が、そこにおられたのである。

 

 

 

 

何となく、『弁財天』と言うと水辺のイメージがあるが、

ここはまごう事なき内陸会津の飯盛山の山中である。

山の中に弁財天がいる。

何とも言えず不思議な気持ちになった。

この飯盛山の弁天様にはこんな伝説がある。

 

 

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昔、会津にある飯盛山は『弁天山』と言われていた。

それは山の奥に弁財天が祀られていたからであったが、

あまりに奥で通いにくいことから、

滝沢村では山の中腹に弁天様のお堂を立てることにした。

そしてある晴れた日を選んで、お堂の広場で盛大なお祝いの宴を始めた。

お昼頃のことだった。

どこからか牛の鳴く声がしてそちらを見ると、

1人の娘が黒牛に乗ってやって来る。

手には赤飯を山盛りにしたお鉢を持って、広場へとやって来た。

娘のあまりの美しさに村人たちは見惚れた。

「この度は、立派なお堂をありがとうございました。お

礼としましてこの赤飯を御馳走いたします」

と娘は言った。

「どこから来た?」

と村人たちが聞いても、

「ささ、遠慮しないで」

と娘は赤飯をすすめて笑うだけで答えようとしなかった。

すすめられるままに村人たちが赤飯をいただくと、

それは今まで食べたことがないくらいの美味さであった。

不思議なことにその赤飯は何度よそおっても減ることはなく、

ひとりでに飯が湧いてきた。

村人たちが不思議に思いながらも、腹いっぱいになるほど食べて満足すると、

娘はお鉢を牛に背負わせて、

お粗末様でした」

と言って、どこかへ行ってしまった。

村人たちはぞろぞろと娘の後を追いかけ始めた。

娘と黒牛は滝沢村の村はずれから南の道を通り、やがて姿を消した。

村人たちは誰いうとなく、

「あの娘は弁天様じゃったんじゃ」

と言い、牛が消えた辺りに牛の墓を立てて祀り、

今では『牛ヶ墓』という地名となった。

また弁天山は飯を盛った形をしていることから『飯盛山』と呼び、

今でも親しまれている。

 

 

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飯盛山の

元の名前は『弁天山』だったと。

黒牛に乗った弁天様。

なぜ『牛』なんだろ?

 

 

 

 

調べてみたら、

名古屋市の宗像神社近くの『弁天通商店街』に、

牛に乗った弁天像があったのね。

あ。これはもしかしたら『宗像』絡みかも知れないと。

で、さらに調べたら──

飯盛山』と名づけられた山は全国各地にあると。

『筑前國続風土記』に4つの飯盛山が紹介されていて、

そのうちの1つが『宗像郡の飯盛山』だと。

もしかしたら『飯盛山』の名の由来は、この『宗像の飯盛山』にあるのかな?

そう思った。

 

 

 

 

 

 

そうそう。

りまりまさんの記事に確かあった。

宗像窯──

767年。

会津美里町(旧会津本郷町)に宗像神社を建立。

1719年。代々神官をしていた宗像氏が宗像窯を作ったと。

そうなんだよね。

会津には『宗像氏』がいたんだよね。

だから当然『宗像信仰』もあったわけで、

宗像神の市杵島姫は弁財天と同神とも言われてる。

それで内陸の会津に『宗像信仰』と『弁天様』があるのではないかな?

メモがてらに。

 

 

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夏風邪をひいてしまいました。

なのでしばらくブログはお休みします。

治り次第、更新するのでその時はよろしくお願いします。

毎日とてつもなく暑いので皆様もご自愛なさって下さいませ。