ゆうべ『すずめの戸締まり』を見た。
映画館で見た時は最後辺りのシーン──そう。あの日の朝の、
みんなが「行ってきます」と言って家を出てゆくシーンで、音響のせいだろうか、
映画館の前後左右からさざ波のように「行ってきます」「行って来まーす」の声が
わんわんと耳に響いて泣きそうになった。
でも今回は違った。サダイジンが聖獣の姿になってミミズと必死に戦うところ、
ダイジンが要石に戻る時──切なくて、涙腺崩壊しそうになってしまった。
神様って何だろう?
映画を見終わって、ベッドに入って、泣きながら思ったこと。
大地震でたくさんの人が死なないように、たくさんの人の命を守るために、
ミミズの頭と尻尾を押さえている2つの要石。あれは人柱だ。
神様を数える時に「ひと柱」「ふた柱」と数えるのもその名残り?
黄泉に行ったイザナミや冥界へ下った大国主、この世とあの世の境に立つ塞の神、
3つのプレートと中央構造線を押さえてくれている諏訪、
富士山が噴火しないように剣を大地に突き立てて守る木花開耶姫──
黄泉、冥界、境界線、あめつちを繋ぐ富士山…
至る所に神様はいて、いつもいつも、わたしたち人間を守ってくれている。
そんなビジョンが飛来して、その時『ひふみ神示』のある一節が浮かんだ。
寂しさは人のみかは
神は幾万倍ぞ
寂しさ越えて時を待つ。
(ひふみ神示第1巻上つ巻 第1帖)
柱となって、
日夜人々を守ってくれる神様の寂しさ。
神の寂しさ幾万倍ぞ…
その慈悲の心に泣けて来る。
根の国底の国におわす誰かが──
遠くから静かに語りかけて来る。
その声は男神──浮かんで来るのは大地の底の底に立つ、国常立尊の姿。
寂しさ越えて時を待つ。
戸を閉めるのが良いのか?果たしてそれで良いのか?
まだわからないけれどわたしは神様の心に寄り添いたい。
孤独でないように。
寂しくないように。
ふとそう思った。
東京の後ろ戸。
あれは地下のようだったけれど、あのシーンを見た時に浮かんだ光景。
鹿島神宮の御手洗池がオーバーラップした。
あの水の上にひっそりと立つ鳥居──
晶來さんのブログにも
御手洗池のことが書いてあったっけ。
彼女がこの場所で感ずること──それは個人的な感覚かも知れないけれど、
わたしも何となくわかるよ。
うまく言えないけれど感じるんだよ…あの場所に。
あれも一つの後ろ戸なのかも知れないし、重要な場所であるのかも知れない。
なぜわたしがこういうことに敏感に反応するのか。
それには理由があって…
わたしの先祖は信州にいたけれど、龍神への捧げ物みたいになったお姫様がいた。
捧げ物というか、龍神に気に入られて嫁入りしたと伝わっている。
龍神の妻──と伝わっているけれど、
人身御供なのかも知れないし、要石ってそういうことなのかも知れない。
川の氾濫を防ぐため。
火山の噴火を防ぐため。
飢饉から村を救うために。
理由はそれぞれだけど、そういう人たちが昔はたくさんいたのだろう。
ゆうべの『すずめの戸締まり』を見て思ったよ。
神様と呼ばれているけれど人身御供になった人たちがいたのかも知れないって。
人が作った神様なのかも知れないって。
寂しさ越えて時を待つ──
その言葉の意味をしみじみと考えてしまった。
いつか神様が「お役」から解放される時が来るんだろうか?
ただの人間に戻れる日は来るんだろうか?
それはわたしたち生きている人間の「在り方」次第なのかも知れない。
大地との関わり方、自然との関わり方。
わたしたち自身も変わらないと。自覚して変わらないと駄目だろうね。
神様が寂しさから解放される日のために…