この記事は 2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...
   

2022年9月4日(日)に 富士根本宮 村山浅間神社・富士山興法寺大日堂にて「富士山閉山式」が執り行われました。

閉山式は、ほぼ関係者のみで執り行われましたが、ふじ爺は 7月29日から8月4日、7日間の富士山峯入り単独修行を終え、満願成就させて頂く事が出来ましたので、村山閉山式に参列し、お礼参拝をさせて頂きました。

採燈護摩供では「峯入り修行満願成就感謝」の護摩木を焚いて頂き、感謝の気持ちを神仏に届けました。

AM9:20..村山の総代が閉山式の準備をされています。お話を伺うと、閉山式は AM10:00頃に執り行われるそうなので、先に富士山興法寺大日堂の堂内を見学させて頂く事にしました。
↑AM9:41..富士山興法寺大日堂です。参拝させて頂きます。
「村山修験富士山峯入り修行 ソロで全行程を歩く」では、最終日の夜(8月4日)バケツの水をひっくり返した様な豪雨だった事が思い出されます。
↑AM9:44..富士山興法寺大日堂の中には、7月10日に執り行われた開山祭の写真(富士宮市の広報に掲載)が、展示されていました。
よく見ると、指差した所に小さく ふじ爺が写っています。

開山祭の様子は、回想2.をご覧下さい。
↑【参考資料】奈良時代辺りから、神仏習合という「神と仏は一体である」とする宗教思想が全国的に浸透していました。しかし、1868年 明治政府のもとで「神仏分離」ならびに「廃仏毀釈」が推進され、神道が国教化され、仏教は排斥されました。
富士山信仰の中で、大きな変化があったのは明治7年7月の事です。富士山中にある仏像や仏具などを、一切除去、破壊すべく、富士山本宮浅間大社の大宮司(宍野半 シシノナカバ)、県庁の役人を含む18人が富士山中に入りました。
しかし、村山の人々は事前に山中に入り、富士山中に祀られていた仏像などの一部を いち早く村に下ろし、興法寺大日堂の中に隠し、参考写真のように村山浅間神社と興法寺大日堂の間に柵を設け、興法寺大日堂は固く閉ざされて、人を近付けないように「閻魔堂」と呼んで、出入り禁止としたそうです。
そして時代の流れは変化し、今では多くの人々が、神社と寺院の両方に参詣して、なんら違和感を持たないくらい「神仏習合」の考え方が浸透しています。
↑富士山興法寺大日堂の中には、とても貴重な仏像や仏具が展示されています。

右側から..
★役小角..木像 彩色 高さ125㎝、江戸初期 慶長13年(1608年)戊辰5月13日 の作品。伊賀国から奉納された像で、もとは水晶の玉眼が入っていたそうです。
向かって左に従うのは後鬼坐像(年号不詳)です。

★胎蔵界大日如来..木像寄木造 金箔像 高さ98㎝、室町時代末~安土桃山時代の作と思われます。
↑右側から..
★胎蔵界大日如来..木像 高さ110㎝、富士山興法寺大日堂の中で最も古い年号を有する像で、鎌倉時代 正嘉3年(1259年)の作品。かつては頭上に金が付いていたと云われています。

★金剛界大日如来..木像 高さ135㎝、2番目に古い年号を有する像で、室町時代 文明10年(1478年)の作品。
胎内には木箱が封じられていて、その中に桓武天皇寄進の仏像が入っていると墨書されているそうですが、年代が異なるため定かではありません。
↑後列右側から..
★不動明王..木像寄木造 金箔色彩像、江戸時代の作品。

★腰を曲げた像は雲切不動尊..銅造で表面に鍍金が施されています。高さ32㎝、室町時代 応永24年8月(1417年)
静岡県藤枝市岡部町の刑部大夫光国と誓願寺範蔵主によって奉納された像で、村山古道の行場「岩屋不動」に祀られていたものです。

★胎蔵界大日如来坐像..銅造、高さ65㎝ 年号不詳。
かつては左側の厨子の中に収まっていた像です。厨子には富士講の講社紋が50個付いており、富士講社が奉納したものと思われます。

不動明王は 大日如来の化身とされ、悪を絶ち仏道に導く事で、救済する役目を担っている事から怖い様相をしていますが、実際は 迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏様で、慈悲深いのです。
右手の剣は、人々の煩悩を断ち切り、左手の縄は煩悩から抜け出せない人を吊り上げてでも救い出すものです。
背中の炎は、迦楼羅炎(かるらえん)と呼びます。
迦楼羅は口から炎を吐き、厄災の元凶を食す鳥類の王で、人々の煩悩を喰らう霊鳥とされています。
不動明王は迦楼羅を背に、人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれ、人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないように、烈火で焼き尽くすと考えられています。(諸説あり)
↑富士山興法寺大日堂の中に、雄仁親王(ゆうにんしんのう)の碑伝木(ひでぎ)が保存されています。
村山浅間神社西側の六道坂を横切った所の駐車場に、復刻された碑伝木が建立されていますが、堂内に保存されている碑伝木は当時の物(天保12年 1841年)です。
雄仁親王が、天保12年(1841年)に富士山興法寺に参詣しました。
富士山興法寺は 富士山で活動した村山修験の拠点で、京都の聖護院門跡(本山派修験の総本山)の直末でした。本山派修験では、富士峯修行は大峯修行に準ずる大業といい、本山派管領の聖護院宮は大峯修行の後、将軍加護加持のため江戸へ下向し、帰途に村山参詣をしていたわけです。この碑伝木はその時納められた物です。
雄仁親王の碑伝木は、高さ7.7m、幅60㎝、厚さ22㎝。
「熊野三山検校三井長吏役優婆寒正嫡 富士山巡禮一身大阿闍梨聖護院二品雄仁親王  岩本坊権僧正 岩本法院祐文雑務法印源正 今大路法師橘源良 天保十二年辛丑九月廿日」の銘があります。

※碑伝木とは、修験行者が 峯入りの証に姓名や峯入り年月日を記して、行場などに納める木札または碑の事です。
↑富士峯入行の碑伝木が、多く納められています。
↑AM10:04..護摩壇の近くにヤブミョウガ(藪茗荷)が白い花をつけています。
↑AM10:05..こちらはツチアケビ(土木通 ラン科)
日本固有種で、別名 ヤマシャクジョウ(山錫杖) 
↑AM10:05..富士山閉山式の準備が整ったようです。
↑AM10:10..富士山興法寺大日堂の前で閉山式が始まりました。私も一緒に般若心経を唱えます。
↑AM10:15..護摩壇へと向かいます。
↑AM10:17..村山の総代による「法剣の儀式」。
自らを清め、魔を祓い、結界の中を清める儀式です。
↑AM10:22..村山の村人たちだけで守って来た「山閉じ」を伝承。村山浅間神社宮司の六所氏が導師を務め、護摩供が執り行われます。
↑AM10:24..護摩供(ごまく)とは、ご本尊の前に壇を設け火を焚き、大日如来・不動明王や火の神など、様々な神仏の降臨を念じて、我々人間の願いを捧げる祈りの儀式です。
↑AM10:28..護摩木に書いた願い事は、人間の煩悩を意味しており、護摩木は供物として焚かれます。
燃え上がる炎は「神仏の悟りの智慧(ちえ)」を表しているとも言われており、勢いよく護摩木を燃やす事で、「神仏の悟りの智慧の炎で、私達の煩悩を焼き滅ぼす」とされています。
人間の煩悩を 神仏の智慧の炎で焼き尽くし、人々の願いが「清浄な願い」として高まり、成就する事を祈るわけです。
↑AM10:30..私は「峯入り修行満願成就感謝」と書いた護摩木を焚いて頂き、感謝の気持ちを神仏に届けました。
炎の形が、まるで不動明王の迦楼羅炎(かるらえん)の様です。
↑AM10:42..村山浅間神社・富士山興法寺での富士山閉山祭の幕が閉じました。
2022年の夏は 新型コロナ オミクロン株 BA.5が猛威を奮っており、2類相当の感染症と位置付けられ、不要不急の外出は控えるように厚生労働省から促されていた時期でしたから、閉山式も規模を縮小して関係者だけで執り行われました。

回想1.でも書きましたが(回想1.はこちら )、44年勤めた会社を早期退職し、満を持してふじ爺単独での「村山修験富士山峯入り修行 全行程(往路 復路)巡拝」という修行目的を、無事に果たす事が出来て感無量です。
新型コロナ感染拡大により、畠堀操八先生が毎年企画される「本山修験宗総本山 聖護院門跡 富士山峯入り修行」は、残念ながら3年連続中止となってしまいましたが、2023年5月8日から5類感染症へと位置付けが下げられ、ふじ爺が満行成就した翌年の2023年8月に「第10回 本山修験宗総本山 聖護院門跡 富士山峯入り修行」が盛大に執行されました。ふじ爺も参加しておりますので、下のURLからご覧下さい。(登山地図アプリ YAMAPを利用して活動日記を仕上げています)
 

 


《 完 》