今回は、昨年プロとしてスタートされたガイドさん(a.さん)のホーム(地元)にお邪魔させていただき、aさんと一緒に、富士山北麓の溶岩台地「剣丸尾」の考察ハイクを楽しみました♪


剣丸尾は、船津胎内や吉田胎内を形成し、富士山信仰のひとつである「富士講」と深い繋がりがあります。

船津胎内は江戸時代に錦絵として描かれ、当時の富士詣が盛んだった事が窺えます。


五雲亭貞秀の作品はこちら

↑以前、歌川貞秀(五雲亭貞秀)の作品「冨士山體内巡之圖」を紹介させて頂きましたので、ご覧ください。

↑写真は、戦前の1/10000富士山地形図です。(ふじ爺所蔵)
「剣丸尾」という溶岩台地を形成した溶岩流は、承平7年の西暦937年(青木ケ原丸尾を形成した864年~866年の貞観大噴火の71年後)、河口湖正面の富士山北麓から小御岳、丸山を回り込み、現 富士すばるランドを通過する際、船津胎内や吉田胎内を形成、そして富士急ハイランド、最後は上暮地白糸近くまで達した溶岩流です。
この時期の富士山は、流動性が高いハワイ式のパホイホイ溶岩を流出させていました。
↑AM7:59 集合場所の河口湖フィールドセンターに向かう途中、富士河口湖町富士ヶ嶺(山梨県南都留郡)から富士山を撮影♪

↑AM9:00 河口湖フィールドセンターには楼閣状樹型など、多くの溶岩や、富士山に生息している動物の剥製などが展示されています。
↑河口湖フィールドセンターの敷地内に『船津胎内樹型』があります。
前日の雨で御胎内の中に水が溜まっており、水抜き作業中との事なので、まずは河口湖フィールドセンターで受付を済ませ、フィールドセンター内の「Aトレイル」散策へと歩を進めます。
↑船津胎内樹型脇のAトレイルの森に入って直ぐに、泉源たい菩薩を安置した洞穴(現 船津胎内樹型)を示す石柱が建立されています。(万延元年 1860年 丸明講が造立)
↑Aトレイルを進むと…
↑右手にパイプ状で地表近くに残された樹型の「流木型溶岩樹型」が現れます。

※溶岩樹型とは…
溶岩が流れ下る際に樹木を取り込んで固化し、燃え尽きた樹幹の跡が空洞として遺存した洞穴を溶岩樹型と言います。
↑森の道脇に明治15年(1882年)に造立された石碑。
泉源御胎内と元之父様御胎内へ向かう道の方向を示す石碑で、天保14年(1843年)に父様御胎内を定めたと刻銘。嘉永7年(1854年)に泉源御胎内を定めたと刻銘されています。
↑船津溶岩樹型 第17号。

国指定天然記念物 船津胎内樹型周辺には、43の溶岩樹型が点在しています。


↑こちらは船津複合溶岩樹型 第16号で「横臥型溶岩樹型」です!
夏でも大変涼しい横穴で、設置されている温度計を見ると10℃でした♪ ここは入洞出来ます。
↑船津溶岩樹型 第22号で「傾斜型溶岩樹型」と呼ばれ、倒れたかけた樹木によって出来た斜めの樹型です。
↑船津溶岩樹型 第24号で「井戸型溶岩樹型」と呼ばれ、太い木が立った状態で樹型になりました。
↑こちらのアカマツ林(赤松)は植林されたものでなく、植生の遷移によるものです。溶岩で焼き尽くされた裸地から森林が形成される過程で、太陽の陽射しを好む陽樹のアカマツが育って来たわけです。
↑ツクバネウツギ♪(衝羽根空木)
5月頃に白い花が咲き、やがて五つの顎は紅紫色になり、プロペラの役割りをして種子を飛ばします。
↑写真は剣丸尾溶岩流の縁(へり)で、西縁の崖からは溶岩の厚さが確認出来ました♪
↑イチヤクソウ♪(一薬草)
↑こちらは「石柱型溶岩樹型」で、天然記念物重要資料となっています。
梯子を降りたところに横型の樹型が2個所あり、複合溶岩樹型となっています♪

Aトレイルの散策を終え、無戸室浅間神社(むつむろせんげんじんじゃ)へと歩を進めます。
↑胎内信仰の起こりは、19世紀初頭に書かれた地誌『甲斐国志』では、「胎内穴」に言及し、「浅間明神出現ノ古跡」として信仰を集めていて、富士参詣の旅人は必ずこの洞穴に入っていると記述されています。

「胎内穴」とは、剣丸尾(けんまるび)と呼ばれる溶岩台地に広がる、国指定天然記念物 船津胎内樹型の中に点在する43の溶岩樹型うちで、最も大きなものを指しています。(現 船津胎内樹型)

現在では入口を覆うように「無戸室浅間神社」(むつむろせんげんじんじゃ)の社殿が建っています。

↑社殿左手には、明治9年(1876年)に丸藤講(まるとうこう)の「総講社」により造立された大きな富士講碑があります。
その碑には丸藤講の開祖「高田藤四郎」(行名 日行青山 ニチギョウセイザン)が、安永元年6月(1772年)に師の「食行身禄」の教えと神のお告げにより、この洞穴を発見し「胎内潜」と名付けたと由緒が刻まれ、百年忌記念として業績を称えています。
↑無戸室浅間神社に参拝させていただきます!
↑神殿の右手には、厨子に入った丸藤講の開祖「高田藤四郎」(行名 日行青山 ニチギョウセイザン)の木像が安置されています。

これから船津胎内樹型へと入洞します♪
↑船津胎内樹型は、大小数本の樹木が折り重なって出来た総延長70mに及ぶ複合型溶岩樹型で、昭和4年(1929年)に国の天然記念物に指定されました。
↑船津胎内樹型の見どころ(河口湖フィールドセンター内に掲示)
↑神殿の真下が「船津胎内樹型」の入口となっています。
↑入口部分では、肋骨状の壁面が6mほど続き、見事な様相を呈しています♪
↑突き当たりには、真鍮で作られた大麻(おおぬさ)が祀られています。
おそらく、この場所で祓い清めていただくのでしょう!
↑赤く酸化した溶岩流跡。
↑母の胎内へと向かいます。
↑直径90cm、延長約20mの産道を身を小さくして進みます。奥室の入口天井は下がっていて狭いです。


↑船津胎内樹型内に祀ってある2体の石像は、智拳印を結んでいるので『金剛界 大日如来坐像』です。
この仏は「浅間大神」「浅間明神」「浅間大菩薩」「木花開耶姫」など、いろいろな言い方をされている神の『本地仏』です。
現在、母の胎内に祀ってあるものは「コノハナノサクヤヒメ」とされ、父の胎内に祀ってあるものは「ニニギノミコト」とされていますが、これは神話「古事記」の内容に沿う形での言い方で、江戸時代にはそれほど神道色はありませんでした。

添付した五雲亭貞秀(歌川貞秀)の錦絵『冨士山體内巡之圖』(江戸後期 安政5年 3月 1858年)は、ふじ爺所蔵の物で、洞穴内部が説明書きと共に描写されています。
母の胎内を「阿弥陀の洞」「乳の胎内」と紹介しており…
「垂れる水が乳の色のように白く固まったようになっている」
「年中水が垂れている」
「その水は人肌のように温かい」
「垂れる水は腹帯に受け止めて乾かす」
「その腹帯は持ち帰って妊婦の腹帯にする」
「お乳の出ない人にも貸してやる」
「お乳の出の少ない人は腹帯を水につけてから飲む」
と、錦絵には説明書きされています。
この錦絵から、ここの神仏のご利益は子授け安産という事が分かります。
↑延長15mの父の胎内です。
↑父の胎内天井部では細い樹型が交差しています。

↑五雲亭貞秀(歌川貞秀)の錦絵『冨士山體内巡之圖』では、父の胎内は「大日の洞」「火の胎内」と紹介しています。
ちなみに、この二つの室の名称は、記録資料によってそれぞれ違い、当時の人々はいろいろな言い方をしていたようです。
↑出口近くの溶岩樹型。
流れ出た溶岩によって出来た樹型は、元々何の樹木だったのか?と疑問を抱いたので、スタッフの方に聞いてみました。溶岩が流れる前は、この一帯、杉などの針葉樹の森だったのではないかと推測され、樹型から屋久島の縄文杉クラスの太さを誇るものも点在していたとされるそうです!
↑江戸時代では、胎内潜りを終えた道者にマクリを振る舞い、「無事に生まれる事が出来ておめでとうございます」と声をかけたそうです。ということで…
無事に生まれた記念に自撮り撮影♪

※マクリとは…

熱帯の海岸に広く分布する海人草の事で、フジマツモ科の海藻です。煎じて回虫や蟯虫(ギョウチュウ)の駆除薬としたそうで、甘草(カンゾウ)、大黄(ダイオウ)を加えて、新生児の胎毒を下すのに用いたそうです。


そろそろお昼時間となりましたので、中の茶屋へと歩を進めます。


↑PM12:50 中の茶屋さんで、富士吉田市の郷土料理「吉田うどん」をいただきました。
a.さんのお話では、富士吉田市は 茹でたキャベツと甘く煮た桜肉(馬肉)のトッピングが一般的だそうです♪
歯ごたえとコシがとても強い麺は、噛めば噛むほど旨みが増します!

吉田口登山道沿いにある中の茶屋は、登り始めると最初にある茶屋です。この地は富士講道者の多くが立ち寄った「船津胎内」「吉田胎内」へ行く道の起点でもあった事から、往時は山頂と胎内へと目指す人で大変な賑わいをみせたそうです。
これから「吉田胎内」へと歩を進めます。
↑ヤマアジサイ(山紫陽花)を愛でる a.さん♪
↑吉田胎内樹型へと歩を進めます。
↑承平7年(937年)の剣丸尾溶岩流の東端に形成されたのが「吉田胎内」です。(ちなみに西端に形成されたのが船津胎内です)
吉田胎内も、昭和4年に国の天然記念物に指定されています。
船津胎内樹型同様、いくつもの樹木が重なり合って複雑な樹型を作り、その形ゆえに女性の胎内に例えられ、胎内信仰に繋がっていきました。
吉田胎内は、富士山を訪れた富士講道者から祈りの対象となり、現在も富士講の講者や富士吉田市の御師たちによって守られています。
普段は、吉田胎内内部に入る事が禁止されていますが、毎年4月29日に執り行われる「吉田胎内祭(お焚き上げと呼ばれる儀式)」の時に一般公開され、吉田胎内樹型内部を見学する事が出来ます。

この吉田胎内は、丸藤講の先達である「星野勘蔵 」(行名  日行星山 ニチギョウセイザン」が発見し、明治25年(1892年)に開いたものだそうです。
江戸時代から知られた船津胎内を旧胎内と称するのに対して、こちらは新胎内と呼ばれたそうです。
↑吉田胎内の周囲には、多くの富士講碑が建立されています。
吉田胎内から東方向へと歩を進めると…
↑剣丸尾溶岩流の東縁に巨大な溶岩樹型が形成され、溶岩崖には巨大な樹型が3穴あります!
吉田胎内周辺には62もの溶岩樹型が点在しており、こちらは「吉田胎内複合型溶岩樹型 第23」となります。

↑こちらは「吉田胎内複合型溶岩樹型 第34」となります。
樹木が燃え尽きた後、まだ溶岩が固化しきれず溶岩鍾乳石になっています♪ 富士山麓では1200℃の溶岩を流出させていますから、生木も容易に燃やしてしまいますね。
そして一瞬!陽が射して来て、冷気の昇華による「天使の梯子」を見る事が出来ました♪
↑タマゴタケ♪(卵茸 テングタケ科 テングタケ属)

これから「船津口登山道」へと向かいます。
↑船津口登山道は剣丸尾に沿って富士山に登って行く古道です。
↑船津口登山道沿いには多くの溶岩樹型が点在しています。
↑船津口登山道の左手が剣丸尾となります。
剣丸尾溶岩流によって裸地となった溶岩台地には、多くのミズナラ(水楢)が育ち素晴らしい森を形成しています♪
↑満開のシナノキ(科の木)の花に吸蜜に来たアサギマダラを優しく愛でられ、綺麗な浅葱色に感動される a.さん♪ 愛でられる姿は穏やかで温かみがあり、とても嬉しく思いました♪(船津林道にて)

今回は、久しぶりに剣丸尾溶岩流を散策しましたが、青木ケ原丸尾同様、富士山が育んだ自然と、歴史と文化を再認識させていただきました。a.さん、ご一緒していただきありがとうございました♪
次回、剣丸尾に訪れた際は「吉田胎内」周辺をより時間をかけて探索してみようと思います。
↑今回の散策ルートです♪
旧船津口登山道では、ツキノワグマの生息地なので熊避け対策が必要です。


↑今回同行された a.さんは、アクティビティの施設「NaturaBase」にお勤めのガイドさんで、主に河口湖を拠点に活動しておられます!

カヤックやサップボード、バナナボート、スワンボート等… 是非この夏!河口湖でアクティビティを楽しんでみてはいかがでしょうか!
尚、2024年5月1日から西湖近くの「龍宮洞穴のトレッキングツアー」を始められましたが、7月現在 ツキノワグマの目撃情報がよせられた事から、トレッキングツアーはお休み中との事です。
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