※この投稿は旧ブログタイトル「如是我聞」で書かれたものです。現タイトルとはそぐわないかもしれませんがご了承ください。

 

「在日本朝鮮人連盟」誕生の歴史 共産主義者が反共民族派の幹部を拘束・監禁
という記事がヤフーニュースに載っていました。

 

 

Yahoo!では都合が悪くなったのか、Twitter社のように削除要請が殺到したのか削除されてしまったようなので、新潮の元記事のアドレスを載せます。

 

 

 

読み進めてみると、いかに在日朝鮮人連盟が「日本共産党」とつながり、共産主義者によって作り上げられたのかが目からウロコのようによくわかりました。

しかし長文なのでわかりづらい方もいるかもしれないので、自分なりに抜粋、修飾し、注釈を入れてわかりやすくしてまとめてみたいと思います。

以下記事の引用要約(緑字)


 金斗鎔(※左翼は赤字)をはじめとする朝鮮人共産主義者たちは、「在日本朝鮮人連盟結成中央準備委員会」に集い、朝鮮民族同士手を取り合って一大組織を作ろうとした。だが集まった顔ぶれの多くは、愛国的な在留朝鮮人組織の中枢にいた人物(※親日は青字)だった。

 新しく誕生するこの巨大な組織が
彼らに牛耳られた場合、かつて朝鮮人の統制に使われた相愛会や協和会、興生会、一心会のような日本政府御用機関になる可能性がある。朝連を「革命組織にするには、日本政府と縁がある人間、すなわち、革命の思想に反対する人間組織から徹底的に排除する必要がある――金斗鎔はこう考えた。

日本において、現行政府の下で在日朝鮮組織をつくろうとすれば、必然的に日本に友好な朝鮮人たちが集まり、友好的な組織となっていくのは諸外国においてもそういうものかと思います。

 

戦争時に「危険思想」「反政府組織」などと目されていた朝鮮人ら共産主義者は少数派であり、だからそこ「革命組織」をつくること自体「革命」を起こす必要があったのでしょう。

 だが組織を作るには、準備委員会の右派リーダーたち、在留朝鮮人主流派の協力も不可欠だった。なぜなら、革命を成し遂げるには彼ら資金が必要だったのだ。

 

  相愛会や興生会などの親睦団体は、日本政府と密接な関係を持ちながら運営されていた。その背景には、政府からの多額の資金投入があった。

 

  むろん朝鮮人の多くはそれを好ましいと思ってはいない。だから新しい組織を作る上で、親日団体の幹部が中枢に座ることは、戦前からの体制が続いているような印象を与え終戦を機に敗戦国民とは一線を画したいという朝鮮人の心情を逆なでしたことは否めない。

 

漫画「はだしのゲン」の、前半(後半はスポンサーがついて内容が変わった)では、戦後朝鮮人が日本人を敗戦国民と冒涜し、暴行、婦女凌辱している様が描かれているシーンもあると言います。自らは戦中日本兵に志願し「皇兵」だと中国人を棒でなぐっていたにもかかわらず。(中国では今でも日本人を「鬼子」、朝鮮人を「棒子」とよぶこともあるのだとか)

そういう機運の中、日本政府から資金を得て日本と友好であった「主流派」に対して、多くの朝鮮人が共産主義者の声に耳を傾けたのは下地があったのかもしれません。

 

 金斗鎔たちは思想犯として投獄された朝鮮人同胞を解放することを目標に、「政治犯釈放運動促進連盟」を結成したが、当然ながら政治犯は朝鮮人より日本人共産党員が中心だった。たちはこの運動を通して獄中の日共幹部と深く連帯し、日本共産党の再建を通して革命を成就させようと考えていた。

 

  戦時中に転向した朝鮮人の共産主義者は、特に日共の再建に熱心だった。

 

 「金斗鎔をはじめとする朝連準備委の共産主義者たちは日本共産党に入党し、その再建のために政治犯釈放運動促進連盟を組織したと思われる。彼らは戦時中に転向した者たちなので、その罪責を免れるために日本共産党の再建にもっとも積極的であったようである」(権逸『権逸回顧録』)

 

この時点で日本共産党が、朝鮮人共産主義者からの支援を受けており、下部組織としていた可能性は高いのでしょう。そしてその下部組織が日本の中で肥大し、日本共産党を上回る反日、左翼勢力に膨れ上がっていく様が下に書かれています。

 

 

資金流用問題
日本政府からの資金だけでなく、在日朝鮮人らからの献金までもが共産主義者の活動に秘密裏に流用されていたことから、在日朝鮮人の中の右派と左派の対立が激しくなっていきます。

朝連準備委の反共民族派たちは、共産主義者たちのこのような動きを全然知らなかったが、彼らが朝連準備委の資金を減らし始めてから、その陰謀を知るようになった。朝連準備委では、運用資金を在日同胞たちの献金で充当していたが、共産主義者たちはこの浄財を政治犯釈放運動促進連盟に流用し、更に日本共産党の再建に利用した疑いがもたれた。最初このことに感づいて、資金を何処へ使用したのかと追求したところ、朝鮮人政治犯釈放のために使うのだと誤魔化した。しかし嘘が長く続くはずはなく、共産主義者たちの陰謀は発覚し、左右の対決が避けられなくなってきたのは十月初めの頃であった」(権逸・同前)

 

  権逸と、金斗鎔共産主義者との対立は先鋭化していった。

 

 「論争は金(斗鎔)が、朝連準備委は日本共産党と密接な関係を持たなければならない、と強弁したことから始まった。は、今日の情勢下では、一つの国の問題は決してその国の意思だけで決定されることはない。周辺の国際関係によって決まる。今の世界の趨勢は進歩的民主主義(共産主義)を指向している。だから、在日朝鮮人は日本共産党の発展に寄与し、その指示に従わなければならない、と強弁した」(権逸・同前)

 

 これに対し権逸は「このような論理は共産主義者たちの世界観から出てきたものでしかない」と反論し、次のように語っている。

 

 「共産主義者たちが在日同胞の貴重な浄財を日本共産党のため流用していることを、おそまきながら知った反共陣営の私たちは、そのような策動を阻止することで意見の一致をみた。日本共産党員が出獄するのに、どうして日本人でもない朝鮮人が歓迎会をしなければならないのか。私たちはこのように頑強な態度で相対し、両者は正面から衝突せざるを得なかった」(権逸・同前)

 

 

一夜にして左派一色に

日本と在日朝鮮人との友好組織になるはずだった「在日朝鮮人連盟」が、その結成式典から共産主義者の手によりクーデターが起こされて反日組織となってしまった様が描かれています。

 

 1945年10月15日と16日に「在日本朝鮮人連盟」の結成式典がとり行われた。

 

 この日までは、準備委員会で選ばれた親日派が組織の中枢にいて、式典も彼らが運営していた。ところが翌16日になると、状況は一変する。この日は会場を東京・両国公会堂に移して開催されたが、その日の様子を法務官の坪井はこうつづる。

 

 「開会にさきだち、二階の各所から『朝鮮民衆新聞』創刊号やビラが配布されたり撒かれたりした。その中にはかつて相愛会、協和会、一心会、興生会などに参加していた朝鮮人幹部名をならべ親日派民族反逆者を徹底的に朝連から一掃せよ』と力説されていた」(同前)

 

  会議は、左派の指導者である金正洪によって進行され、府中刑務所から出獄した共産党幹部の金天海が演壇にあがり朝鮮統一と天皇制打倒親日派糾弾について応援演説をぶちあげると、新しい役員人事が発表され、圧倒的声援と拍手により承認された。

 

  その顔ぶれは、準備委員会時の愛国組織の団体の長が一掃され、左派とその同調者によって独占されてしまった。朝連の中央役員陣は、一夜にして左派一色に塗り替えられてしまったのである。

 

もうこの時点から、反日左翼の中に「朝鮮統一と天皇制打倒」はセットだったのですね。今のリベラルらの活動のルーツがわかるようです。

 


結成式典での乱闘
 

会議場に入ってみると事態は心配していた通りであった。全国から集まった代表たちに、金桂淡(金天海直系の部下)が発行した謄写版刷りの『朝鮮民衆新聞』創刊号が配られ、そこには×××などを徹底的に葬れ!』などという激しい煽動記事が満載されていた。場内の雰囲気は今にも爆発しそうに騒がしかった」(権逸・同前)

 危険を感じた
権逸は京都帝国大学教授の李哲在博士(のち越北)とともに会場を出て、隅田川河畔に向かった。だが何人かの青年たちが追いかけてきて捕まり、両国公会堂の4階に押し込められてしまう。

「そこには、既に
康慶玉、李能相、朱基栄等の同志が閉じ込められていて、恐怖に震えていた。共産主義者たちはとうとう白昼テロをやってのけたのである。罵倒と喊声が乱れ飛ぶなかで、拳と靴、棒切れが容赦なく私を襲った。私は、生まれてはじめて経験する暴挙の前になす術もなく、私の運命を彼らの残忍な手にゆだねるほかなかった。頭と顔が裂け、血がほとばしり瀕死の状態に陥った。『こいつを、外にほおりだせ!』と叫ぶ声がかすかに聞こえてきた。混沌としている意識のなかで、この叫びを聞いた私は心臓が止まる思いだった。四階の窓から外へほおり出されたらすべて終わりだ。私は何か叫びたい衝動にかられたが、声にならなかった」

こうした左翼の暴行は今のメディアらやネット工作員によって塗りつぶされるか、フェイクニュースやヘイトデマに書き換えられているように見えます。または右翼のそれを書きたてることによって、「野蛮なのは右翼」というイメージ化戦略に行われているように感じます。

 

そのような事例として「関東大震災後の朝鮮人虐殺」問題を挙げてみます。

下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」鮮人主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」
 

このような、れっきとした新聞社の記事が、ネットで検索すると「流言・デマ」とされている項目が出てきます。朝日新聞のように「誤報」と認めてもいない記事をなぜフェイクと言い切ってしまうのか疑問でしかありません。


事実であるならば、このような事態が起こったことに対する「日本人の正当防衛」とした工藤美代子氏著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」や、「朝鮮人慰安婦は自発的売春婦」の論文を書いて大変な誹謗にあっているラムザイヤー教授もまた同じ結論に達しているということもうなづける気がします。

「慰安婦=売春婦」主張のハーバード大教授、関東大震災歪曲論文も発表 (ハンギョレ新聞)


共産主義者が一大組織を乗っ取り…

「今日の彼ら
左翼の団体である朝総連この『朝連』を母体にしたものであり、『民団』はこのとき追いだされた私たちが、朝連に対抗するため、『建同』の過程を経て翌年十月三日に発足させたものである」

 かくして
金斗鎔共産主義者たちは、在日本朝鮮人連盟という一大組織を乗っ取り結成式における白日のクーデター権逸たち親日派を追い出して組織を制したのである。


穏健分子は追放

在日本朝鮮人連盟
共産主義思想が著しく扶植され、赤化した背景に、日共幹部金天海氏の存在がある」(篠崎平治『在日朝鮮人運動』令文社)

 
在日朝鮮人共産主義者のカリスマ金天海は10月10日に府中刑務所から出獄すると、在日本朝鮮人連盟の最高顧問に就任した。

 
金天海の指導下に在日本朝鮮人連盟が入ると、金天海在日本朝鮮人連盟が、日本共産党の事実上の外郭団体化することを計画した。

「これが為には
比較的穏健な民族主義的幹部及び親日派幹部の存在が邪魔になるので、その追放を画策左翼的反日分子を煽動し、彼等に対する悪らつなデマ宣伝を行った。この為『朝連』結成の発起人であった権赫周(権逸)李海三等の親日的穏健分子は遂に民族反逆者の汚名をきせられ『朝連』陣営より追放された」(同前)

準備委員会の発足時には
日本共産党再建のために朝鮮人組織を利用することを企図し、親日派団体が組織内に保有していた資金を奪取する計画ができ上がっていたのではないか。

この「左翼的反日分子が悪辣なデマ宣伝を行う」という役割を担っているのが、今のメディアやマスコミのように見えるのは私だけでしょうか。



「日本帝国主義に協力した民族反逆者」という概念

 金斗鎔本人も『朝鮮近代社会史話』(郷土書房)で、一連のくだりについて若干触れている。

「さて、これらの団体や、その団体で働いていた主なる幹部たちは、今はどうなったか? それらは、読者諸君がよく知っているだろう。そのなかの或るものは正しい路線に沿うて、
民主の陣営に来ている。しかし大部分のものは相変わらず反動の途を歩きつつ、敵対的に動いている。しかもその反動とは何か? 昔日の反動は、以上のごとく日本帝国主義に協力したあまりにも明らかな民族謀反者だった。われわれはこれに明らかに親日派という規定をつけている」

 すでにこの時、昨今の韓国において耳にする
「日本帝国主義に協力した民族反逆者」としての親日派という概念が確立していることは特筆に値するだろう。


革命運動そのもの


 朝鮮人共産主義者たちは、まず民族内の戦争を始めた。思想や大義の異なる民族団体を糾合し組織を拡大していく方法論は革命運動そのものだ。敵対組織には容赦がなく事務所や財産の収奪は暴力的なものだった。警察庁警備2課の篠崎警視は、当時の様子を前掲書で次のように記録している。

「(一)元、
興生会役員乃至親日的指導者に対しては民族反逆者の烙印を押し、その『リスト』を作成してこれらの者を拉致してリンチを加える等血の弾圧をなし

(二)
興生会関係その他の建物、財産、簿冊の不法占拠等彼らの所謂接収運動が敢行され

(三)戦時中朝鮮人労務者が就労していた工場事業場に対し、退職金、その他待遇改善の不当要求乃至は罷業を煽動

(四)保安隊、治安隊等の自衛隊を組織し各種の警察権類似行為乃至は集団暴力行為を反覆し

(五)警察の各種取締に対しては熾烈な反抗乃至は集団暴行をなし、延いては警察署に押しかけて犯人を奪還する」


(三)においてはウトロ地区の歴史を紐解くと、その発端の時期と重なるのでは・・・?

(五)では静岡県の浜松市にてそのような事件が実際に起こった暴動犯罪として記憶されています。

 

また最近では「沖縄の警察署襲撃」が重なるような気がするのですが・・・



激しい権力闘争

日本政府は何とかして在日本朝鮮人連盟を
親日派の朝鮮人の管理下におきたいと考えていた。だが敗戦後の政府は、日本人の大陸からの引揚げと、朝鮮人の半島への帰還で手一杯で、それまで日本政府とともにあった親日派朝鮮人までは支援できなかったという。混乱期の政府は、巨大な組織が朝鮮人共産主義者の傘下で産声を上げるのを、ただ見守るしかなかったのだ。


朝鮮人連盟と共産党、両者が勢力を拡大
 

 こうして「在日本朝鮮人連盟」は急速に拡大していった。戦後も日本に在留する決意をした64万7千人の朝鮮人が、共産革命の何たるかをどれほど理解していたのかはわからない。だが、終戦からわずか2年後の1947年7月には、日本在留を決めた朝鮮人と、帰還後に再び朝鮮半島から戻ってきた朝鮮人を合わせて、61万4198人が在日本朝鮮人連盟に加入している。支部は全国632カ所に及んだ。

 一方、
日本共産党の地方組織は在日本朝鮮人連盟を母体として整備され、軌を一にして拡大していく。

! 共産党地方組織は、逆に主として在日朝鮮人らによるものだったのか・・・


「第四回大会当時千八十三名だった党員数が三ヵ月で七倍近くに増大して、この(第五回)大会では、正式に報告のあったものだけでも六千八百四十七名(実際は七千五百名と推定)になり、「赤旗」(当時五日刊)の発行部数も二十五、六万をこえたと発表された」(『日本共産党の五十年』日本共産党中央委員会出版局)

 両者の勢いはとどまる所を知らなかった。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬
「週刊新潮」2022年3月31日号 掲載

 

最後に、なかなかメディアに載ること、それを目にする機会の少ない貴重な情報を、記事にしてくれた新潮さん、そしてヤフーニュースに感謝します。