⁡昨日、とてもいいお天気だった🌞


今年に入ってずっと苦しかった。
その苦しさの理由も実態もよくわからないのに、
ただただ苦しさと共にある毎日。
でもそれを、気のせいだ、と払いのけていた。
今日、久々に会った友達と過ごしていて、
長男のやることなすことすべてにイライラしている私とは逆に、
長男を見てケラケラ笑っている友達家族。
何があっても穏やかに反応できる。
私はなぜこうなれないのか?
親だから。
そうかもしれない。

でも、そういう端的なことではない気がして、
帰宅してからもスライムを壁や床にくっつけ、
弟をおちょくったり
姉弟の髪を引きちぎったり
常に「イヤ!」と言う長男の姿を
ずーっと観察してみて、
寝る前にイライラする気持ちを抑えながらベッドで話をしてみた。


私が投げかけた言葉に対して、
的を得た答えが返ってくることはなく
長男の独り言が始まったとき、
『彼が障害を持っているということを理解していないのは私なんだ』
と気づいた。
彼に
8歳の子どもであることを要求していて
8歳なりの行動や考えを求め、
それが出来て当たり前の日常になっている。
なんで出来ないの
なんでやらないの
なんでそんなことするの
なんでやめてくれないの
なんで
なんで
なんで、、、、
私の苦しさの原因はこれだった。
長男は8歳だけど、
中身は2〜3歳なんだ。
でも、
それが許せなくなっている自分がいた。
体が成長し、
なんとなく行動できることを当たり前だと思っているから、
出来ないと腹が立つ。
頑張ったね
よくやったね
と声をかけることも圧倒的に減っていて、
ちゃんとせーや!
って思ってばかりだった。


そして同時に気づいたのは、
それはそのまんま毎日、毎分、自分にも言っていることだということ。
もっと頑張れ
まだまだ足りない
当たり前のことも出来ていない
そんな風に、息つく間もなく自分に言っている。
誰に責められているわけでもない。
でも、
ずっとずっと自分が自分を追い込んでいる
という図が頭に浮かんだとき、
これをやめられない限り
人に優しくなんてできるはずがないんだ って思った。
お金があるから
時間があるから
○○があるから
で、人は幸せを感じるわけじゃない。
自分が自分をいたわり、慈しむことができると、
見えるものや感じることが
変わるのではないかと思う。
私はまだその道の途中で
自虐の沼から抜け出さなくては、と今しがた気づいたところ。
自分をいたわり、慈しんだその先の景色は、
まだ見たことがないけれど、
これからの私の課題は
死ぬまでにその景色を見ることなんだなと確信した。
⁡  
 


 

#障害を持っていることに固執しているわけでも悲嘆しているとかではない
#心底感じていることを書き出すという作業