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「正しい宗教と信仰」

・邪宗(じゃしゅう)という呼び方が気に入らない

 

「邪宗」という言葉は、「日蓮正宗」の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。

 

「釈尊」は「法華経」に、

「正直(しょうじき)に方便(ほうべん)を捨てて、但(ただ)無上道(むじょうどう)を説く。」

 

と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経々を捨てることを説き、これ以後に説示(せつじ)する「法華経」こそ最高唯一の無上道であると言われています。

 

また方便の経々に執着(しゅうちゃく)していた弟子の舎利弗は自ら、

 

「我(われ)、本(もと)邪見(じゃけん)に著(じゃく)して、諸(もろもろ)の梵志(ぼんじ)の師と為(な)りき、

世尊(せそん)(釈尊)、我(わ)が心を知ろしめして、邪(じゃ)を抜(ぬ)き涅槃(ねはん)を説きたまいしかば、

我、ことごとく邪見を除(のぞ)いて、空法において証(しょう)を得たり。」

 

と述懐(じゅつかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。

 

また、日蓮大聖人は末法の教主として、

 

「正直に権教(ごんぎょう)の邪法(じゃほう)邪師(じゃし)の邪義(じゃぎ)を捨てて、正直に正法(しょうぼう)正師(しょうし)の正義(しょうぎ)を信ずる」

 

ことが、もっとも大切であると教えています。

 

これからのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の「経説」に従って使用していることがわかるでしょう。

 

ではなぜ他の宗派に対して攻撃的な、しかも刺激の強い「邪宗」という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこしま)な宗教が元凶となっているからであり、

 

言い換えると「誤った宗教」、「低劣な教え」がこの世の「不幸の種」だからです。

 

昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、子供や老人まで無差別に殺戮(さつりく)しました。

 

今、私たちが、核兵器の行使(こうし)が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度と繰り返してはならない、と訴えるのは当然でしょう。

 

そしてこの「不幸の原因」が「戦争」であり、戦争は人間社会の「誤った思想」によって誘発(ゆうはつ)されたことを考えますと、「誤った思想」が何十万人、いえ世界大戦で戦死した人を含めますと何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。

 

このような「殺人思想」に対して、邪教・魔説と指弾(しだん)することは言い過ぎでしょうか。失礼にあたるから控(ひか)えるべきなのでしょうか。

 

涅槃経(ねはんぎょう)に、

「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る。」

 

と説かれています。

 

この意味は、災害や事故によって命を失っても地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)というもっとも苦しむ状態にならないが、「誤った教え」を信ずる者は死してのちに必ず「三悪道(さんあくどう)(地獄・餓鬼・畜生)」に堕ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるというのです。

 

一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤(かくせいざい)や麻薬(まやく)のように、本人も気づかないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。

 

正しい仏法に目覚めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する戒(いまし)めであり、今なお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。