「正しい宗教と信仰」
・宗教は狂信(きょうしん)・盲信(もうしん)のすすめではないか
ここでいう「狂信」とは、理性を失い、我を忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信」とは、一つの信仰に埋没し、わけもわからず、むやみに信ずることです。
この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。
まず初めに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。
たとえば霊媒(れいばい)信仰や修験道(しゅげんどう)、あるいは踊る宗教などは忘我(ぼうが)の境地に至ることが救いであり、理想であると説いています。
また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着するあまり、教義の正邪(せいじゃ)ではなく、暴力やテロに訴える場合もあり、これも狂信の一つといえましょう。
さらに念仏宗などは「他の宗教をすべて捨てよ、閉じよ、さしおけ、なげうて」と他の経典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字(ふりゅうもんじ)・只管打坐(しかんたざ)と称して文字による教義理解を否定し、他宗の善悪を知ることさえ嫌います。
また、密教やキリスト教のなかには、社会との交渉を断って、山奥や閉鎖集団のなかで生きることを至上(しじょう)の目的とするものもあります。
このように、他の宗派や社会と隔絶(かくぜつ)することを説く宗教を信ずるならば、他の宗教を比較することもできず、独善的な信仰となります。
日蓮大聖人は、
「迷妄(めいもう)の法に著(ちゃく)するが故に、本心を失うなり」
と説かれ、誤った教えによって本心たる理性が失われ、狂信になると説いています。また、
「若(も)し先(ま)ず国土を安(やす)んじて現当(げんとう)を祈らんと欲(ほ)っせば、すみやかに情慮(じょうりょ)をめぐらしいそいで対治(たいじ)を加えよ」
と仰せられ、社会の平和を実現させるためには、「正法」と「邪法」とをよくよく糾明(きゅうめい)して対応(たいおう)給治(きゅうじ)しなければならないと説かれています。
第二に、信仰修行のうえでの狂信・盲信についていえば、「日蓮正宗」の信仰修行は理性を失う狂信でもなく、わけもなく信じる盲信でもありません。
日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学絶えなば仏法はあるべからず」
と修行とともに教学、すなわち教義の研鑽(けんさん)が大切であると説かれています。
また、
「酔(すい)とは不信なり、覚(かく)とは信なり。今、日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る時、無明(むみょう)の酒、醒(さ)めたり」
と仰せられ、真実の正法を信じ唱題するとき、「無明」という迷いの霧(きり)が晴れて「真理」に目覚めるのであると教示されています。
第三に現実の例証(れいしょう)をもっていれば、大聖人は、
「仏法は習う身には、必ず四恩(しおん)を報ずべきに候か」
と信仰者は人間の道として父母・衆生(しゅじょう)・国王・そして三宝(さんぽう)の四つの大恩を常に感じ、報いるように教えられています。また、職場での心得として、
「御、みやづかい(士官)を法華経とおぼしめせ」
と諭(さと)されています。このように常識をもち、社会人としての勤めに励むことが信仰者の道であると教えています。
日蓮大聖人の願いとするところは、「正しい仏法」によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境界を築くことであり、「日蓮正宗」を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚めさせるために正邪を説き、自らの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。
しかも正法を信ずるならば仏力(ぶつりき)・法力(ほうりき)によって、おのずと円満な人格と福徳が具わり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。