「正しい宗教と信仰」
・信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか。
仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩を解決するために解き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入ることは当然のことです。
信仰を求める動機は、主として直接的に日常生活の支障となる病気や経済苦があげられれますが、そのほかには最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。
人間は誰でも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と再び失敗しない方法について、思いをめぐらすのではないでしょうか。
事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、様々な問題が起きて身動きが出来なくなって、はじめてわが身を振り返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台として正しい信仰が必要であったことに気づいたという人も多いのです。
また、日蓮大聖人は、
「病(やまい)によりて道心(どうしん)はおこり候か」
と仰せられ、病苦が信仰心を起こす原因になるとも説かれています。
しかし、入信の動機はどうあれ、それによって正しい教えにめぐり合い、「正境(しょうきょう)」「(正しい本尊)」に縁することに重大な意義があるのです。
妙楽大師は、
「たとい、発心(ほっしん)真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳なお多し」
と発心の動機がどうであっても、正境に縁したならば大きな功徳を得ることができると説いています。
入信するときの一面だけを見て、やれ病人だ、貧乏人ばかりだ、と非難すことは、仏法の功徳力(くどくりき)を知らない者の愚かな行為といわざるおえません。
大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服し、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、「いかなる境遇の人も必ず幸せになっていく」日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきであります。
大聖人は、
「あいかまえて御信心を出(い)だしこの御本尊に祈念(きねん)せしめ給え。何事か成就させるべき」
と仰せられています。
さらに法華経には、
「無上(むじょう)の宝珠(ほうじゅ)、求めざるに自(みずか)ら得(え)たり」
と説かれています。
これは、無上の宝である成仏の境界は自ら意識して求めずとも、「正境」に縁し修行することによって自然に得られるというのです。
また伝教大師は、正法を信じ行ずる道心こそ「真実の国の宝」であると讃(たた)えています。
この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら恥ずべきことではありません。
むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入口となるのです。