「・稲荷信仰」

「破折の要点」

・神道的形態の伏見稲荷などで祀る宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、神話による神で、そのもととなる「古事記」には「須佐之男(すさのお)の子」とあり、「日本書紀」には「伊邪那岐・伊邪那美の二神の子」とあって、両書の内容が大きく矛盾しています。

 

・仏教的形態の稲荷信仰は、寺院が守護神として稲荷神を取り入れたことからはじまっています。

ところが現在、全国に散在している姿は、もともとの仏教寺院の本尊と、その守護神である稲荷神を混乱し、主従が顛倒しています。

 

・稲荷神社が創建されたという二月の「初午(はつうま)」は、もとは「田の神」を迎える祭りとしてはじまったものであるが、いつの間にか「商売繁盛」にすり替えられている。これは神社の商業主義によるものです。

 

・キツネを拝むことは、自らが「畜生界」に同ずることになり、人格を低落させるとともに大きな罪障を積むことになるのです。

 

 

「・八幡信仰」

「破折の要点」

・神道における八幡神の本体とされる品陀和気命(ほむだわけのみこと)は、あくまで神話伝説上の神でしかなく、しかも武運長久の神として崇められています。

しかし、仏教においては日蓮大聖人が、

「天照太神・八幡大菩薩もその本地は教主釈尊なり」(御書1351)

と説かれるように、八幡大菩薩は釈尊の垂迹(すいじゃく)であり、仏が衆生を導くために権(か)りに八幡の姿を示した菩薩であります。

 

また、

「八幡大菩薩は、正直の頂きにやどり給う」(御書434)

と示されているように、八幡大菩薩は本尊として礼拝の対象とすべきものではなく、正法を信仰する者、すなわち「正直の者を護る神」と位置付けられているのです。

 

したがって、八幡大菩薩を本尊とすることは、本地である仏をないがしろにする本末転倒した信仰となり、利益どころか罰を受けることとなるのです。

 

 

「・天神信仰」

「破折の要点」

・菅原道真が”天満天神という雷神になった”とするのは後代の作り話であり、道真は神であるどころか、自らの不遇を解決することすらできずに、一生を終えた人物なのです。

 

ましてや、道真の怨念を神として崇めることは道理に合わないばかりか、かえって「感応動交」の理によって道真の怨念の悪影響をうけることになるのです。

 

・天満宮では、道真が学問に長じていたことをもって、学力の向上や合格祈願を売り物にしているが、仮に天満宮に詣でた者がすべて合格するならば、まじめに勉学する者はいなくなるでしょう。

このような信仰は、まさに結果頼みの宗教であり、ひいては亡国を招く教えというべきであります。

 

 

「・観音信仰」

「破折の要点」

・観音菩薩が三十三身を現じて衆生を教化することは、あくまで仏の化導を助けるもので、観音信仰を勧めるものではないのです。

したがって、観音菩薩を独立して信仰対象とすることは仏の真意からはずれた本末転倒の姿であります。

また、「観世音菩薩普門品」を独立させて「観音経」とすることも、法華経の趣旨に反するものです。

 

・観音菩薩のはたらきは、本来「法華経最偽(さいい)第一」の宣揚であり、観音信仰と称して、法華経をないがしろにして観音菩薩のみを崇めても、何の利益もないどころか、かえって仏法違背の罪を作るものであります。

 

 

「・薬師信仰」

「破折の要点」

・薬師信仰の本尊である薬師如来は、釈尊の説かれた「方等(ほうとう)部」の「薬師経」に登場する仏で、正式名称を薬師流璃(るり)光如来といい、東方琉璃世界の仏と説かれています。

 

釈尊の極説である「法華経」に至り、仏の本地が久遠の釈尊であることが説かれ(今わたしがこうして教えを説いているが、この私も生まれるはるか昔に法華経を聞いて仏となったのです。その教えの元となる根本の仏がいるのです、というお話)、

 

薬師如来をはじめ、すべての仏は枝分かれした垂迹の身であることが明かされました。

したがって、薬師如来の単体を信仰することは仏教本来の教えに外れるものであります。

 

・薬師如来は、東方琉璃世界の仏として説かれているとおり、娑婆(この世界)世界にすむ衆生とは無縁の仏であり、人々がいかに祈願しても願いが叶う仏ではないのです。

 

・日蓮大聖人は、正法を信じない末法の衆生に対し、

「薬師如来の十二大願、衆悉除の誓いもいよいよ及ぶべからず。これらの薬をつかわば病は消滅しないばかりか、いよいよ倍増すべし。」(御書690)

と仰せられ、薬師如来を信仰しても病が治るどころか苦しみが増す、と戒められています。

 

 

「・地蔵信仰」

「破折の要点」

・地蔵信仰とは地蔵菩薩に願をかける信仰であります。

地蔵三経のうち、「地蔵菩薩本願経」「占祭善悪業報経」は中国においてすでに偽経とされており、「大乗大集地蔵十論経」も「方等部」の方便の教えであり、釈尊の本意でも真実の教えでもありません。

 

さらに日本における地蔵信仰の元になっている「地蔵菩薩発心因縁十王経」「延命地蔵菩薩経」も偽経と断定されています。

このように地蔵信仰は、偽経や方便経を出所として仏教を装っていますが、その実態は仏教とまったくかけ離れた低俗なものなんです。

 

・近年、流産や事故で子を失った親が、地蔵菩薩を建立して供養する例もありますが、地蔵菩薩を子供に見立てることも経典にはない後代の創作であります。

したがって地蔵信仰で供養しても正しい供養にはならないのです。

 

 

「・不動信仰」

「破折の要点」

・不動信仰の本尊である不動明王は、不動金剛明王とも不動尊ともいい「動かない守護者」を意味しています。

「不動明王」が使える「大日如来」は、理論上の法身仏で娑婆世界の衆生を救う仏ではありません。

ましてその使者(化身)である不動明王に衆生を救済する力などないのです。
 

しがたって、法華経に背く真言の加持祈祷で護摩を焚き、不動尊に祈願をし、「身代わり札」や「交通安全のお守り」などを身につけても、かえって災難を招くことになります。

 

・不動明王のはたらきが説かれている「大日経琉」は、真言宗の善無畏(ぜんむい)が中国に「大日経」を広めるために、天台の教えを盗み入れて作成した「欺瞞(ぎまん)の書」であります。

 

 

「鬼子母神信仰」

「破折の要点」

・経典によれば、鬼子母神は、500人の子を持ちながら他人の子を奪って食らうことを常とする悪鬼でありました。

その悪行を止めさせるために釈尊が、鬼子母が一番かわいがっていた末の子を隠したため、鬼子母は我が子を狂ったように探したが見つからず、ついに釈尊のもとに助けを求めてきました。

 

そのとき釈尊が鬼子母にたいして「多くの子のうち一人を失っても悲しいのに、少ない子を奪われた他の親の悲しみは計り知れないであろう」と諭しました。

これにより鬼子母は前非を悔いて仏に帰依し、これからは他の子供を害さないことを誓いました。

 

その後「法華経」陀羅尼(だらに)品に至り、鬼子母神はその娘「十羅刹女(じゅうらせつにょ)」とともに、法華経を受持するものを守護すると誓ったことから諸天善神として位置付けられました。

 

鬼子母神は仏に帰依して弟子となったものでありますから、仏を差し置いて、その弟子であるものを個別に祭祀・礼拝することは本末転倒なのであります。

 

・鬼子母神は、法華経を信受する行者を守護することを誓い、諸天善神として位置づけられました。

したがって、鬼子母神の守護の力は、法華経受持のうえにのみ現れるのであって、「妙法蓮華経」「本門戒壇の大御本尊」を信仰する人々を守護するものであります。

 

 

「・七福神信仰」

「破折の要点」

・七福神の名を「仁王経」の「七難即滅、七福即生」の分を利用して意義付けしているが、後代に勝手に解釈したもので、本来の経文の意味とまったく関係のないものなのです。

 

・大黒天

もとは古代インドの創造神で暗黒の神とされていたが、後に仏教に組み込まれて軍神とされ、さらに日本に渡って厨房の神といわれるようになった。

この大黒天は、室町時期に「ダイコク=大国」とのゴロ合わせから神話の大国主命と結びつき、現在では福々しい相を示しているが、これは後世に創られたものであり、元来は憤怒の相をした恐ろしい神であった。

 

・毘沙門天

多聞天ともいい、古代インドの四方護持の一人で護国・授福の神とされているが、本来「法華経陀羅尼品」で正法守護を誓った神であり、正法を離れてこの神のみを拝んでも利益はなく、かえって不幸を招くことになる。

 

・弁財天

バラモンの聖典において水の神とされたが、後に爾前経(にぜん)の大日経などど習合し、音楽と弁舌・智慧の天神として崇められるようになった。しかし、これは権(か)りの教えによって天神に祀り上げられたものであります。

 

・寿老人・福禄寿

中国の道教で、「南国老人星」という寿福をつかさどる星の名が、人格化して偶像となり、福寿・長寿の神となったものである。

しかしこれら偶像には、真に福徳をもたらす力はない。

 

・布袋

中国・後梁時代の実名の僧契此(けいひ)がモデルであるといわれる。

下駄も着物も飯も漬物も、皆一緒に入っている袋を常にもっていたことから布袋の名がついたが、その実態は福神と呼べるべきものでない。

 

・恵比須

大漁や海の安全を司る漁業・航海の神とされているが、もともと「夷(えびす)」・「戎(えびす)」の字あて、夷の字義のように異郷より漂着・来訪するものをいい、不幸をもたらす恐ろしい存在とされていた。

 

また日本神話の「蛭子(ひるこ)」は海に流されて捨てられた悲劇の神である。

西宮神社などの「戎社」では商業の神として祀られているが、所詮は神話の域を出ないものであり、その神話においても商売とはまったく無縁なものである。

 

このように七福神は、インド・中国・日本の経典や神話から適当に集めたものにすぎず、信仰の起源も不明瞭で、教義も道理もない、いい加減なものなのです。

このような不合理なものを信仰することは、福を招くどころか不幸をもたらすことになるのです。

 

 

「・金毘羅信仰」

「折伏の要点」

・金毘羅信仰は、一般に「こんぴらさん」と呼ばれる金毘羅神への信仰で、航海や漁業の守護を祈るほか、雷神・水神・農耕神などとしても崇められています。

 

この神は、ワニを神格化したとされるものですが、人間より劣る畜生を崇めるものであり、拝む人の生命を畜生界に落とすこととなります。

 

・もともと金毘羅神は、仏教の守護神とされたものであり、仏を差し置いてこれを直ちに信仰の対象とすることは大きな誤りであります。

 

・金毘羅神は、インドで生まれた信仰であり、「日本書紀」や「古事記」にも記されていない神であります。

にもかかわらず、「金刀比毘羅宮」では、金毘羅神を神話神の「大物主命」として祀っているが、これは強引なこじつけにすぎないのであります。

 

 

「・山岳信仰」

「破折の要点」

・人々の畏敬の念から発生した山岳信仰には、山そのものを崇めるものや、山岳に祀られる神仏を信仰するもの、さらには山を修行の場とする「修験道(しゅげんどう)」などがあります。

 

修験道の祖とされる「役行者」が悟ったという「蔵王権現」についていえば、「権現」とは、本来、仏教にいて仏や菩薩が衆生を救済するために権りの姿をもって現れるものをいうが、

 

蔵王権現は経文の証明がなく、道理のうえからも荒唐無稽であり、役行者の幻覚の産物にすぎないのです。

 

・修験道は、いかに人里を離れた山岳にこもって厳しい修行をしようとも、「因果の道理に基ずく正境(正境とは正しい空間ということ。真に正しい教えを伝えているお寺、御本尊と手を合わせているその空間を正境といいます)」に縁しない限り、思いつきで独りよがりの誤った考えに陥ることは当然であり、真の悟りを得られることはないのです。