※正しい宗教と信仰

・宗教の必要性をみとめない

 

宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人のなかには、感覚的に信仰を嫌う人もいれば、

 

今までまったく無関心に生きてきたことによっての、その必要性に気づかない人もいます。

 

しかし、ほとんどの人は自分なりの信念をもって、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているのでしょう。

 

たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、


社会的な地位を得るということは、尊い一生の仕事であり、並大抵の努力で出来るものではありません。

 

しかし、真実の宗教が人にどのような効果をもたらすのか。

 

人間の生命を説き明かし、人生に指針を与え、これを信じ修行することによって心に秘めた願いを成就し、

 

それだけに終わらず、より高い信念をもって、人間性を豊かに向上していけるものなのです。

 

 

正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤も持たずに大海原を乗り出した船のように、人生をさまよわなくてはなりません。

 

釈尊は、涅槃経の中に、信仰のない人を、

「主無く、親無く、救(く)無く、護(ご)無く、帰(き)無く、趣(しゅ)無く、貧窮飢困(びんぐきこん)ならん。」

 

と説いてます。

 

すなわち、仏という人生における根本の師を知らず、

もっとも慈愛の深い親を持たず、

したがって仏の救済もなく、

護られることもなく、

何を目的として生きているのかということを知らず、

正法の財宝(功徳(くどく))に恵まれない、

心の貧しい人だということです。

 

長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくるときもあるでしょう。

 

少なくとも、病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面しなければならないことです。

 

実際に自分がこうした苦悩に遭遇したとして、

 

自分ひとりの力で、その苦しみから這い上がり、我が身の不幸を幸せな人生へと転換させていくのは容易なことではありません。

 

ましてや、一切の苦悩を打ち勝って、安穏な、自在な境界を開拓して生きていくということは出来るものはありません。

 

 

ここに正しい信仰によっていかなる障魔(しょうま)にも負けない不屈の闘士と、

仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。