※正しい宗教と信仰
・道徳さえ守っていれば宗教の必要はない
道徳とは現実の社会に、善良や人間として生きていくために、自らを律し、互いに守るべき社会的な規範をいいます。
しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間の一往の規範であって、
それによって、「先祖を敬い」、「自らの罪障を消滅」し、さらには「未来の子孫の幸せ」をもたらすなどという力はありません。
つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、
仏教のように、「過去・現在・未来」の三世の因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
日蓮大聖人は、道徳と仏教の関係について、
「王臣(おうしん)を教えて、尊卑(そんぴ)をさだめ、父母を教えて考(こう)の高きことをしらしめ、師匠を教えて帰依をしらしむ」
と仰せになって、道徳は仏法の先駆けとして、その序文の役割を果たすものだと記されています。
昔から人の守るべき道徳の一つとして「孝養(こうよう)」ということがよく言われています。
自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報いることは大切なことです。
しかし、仏法における「考養」とは、ただ親の言葉に従い、親に物を贈ったり、年老いた両親の面倒を見ることにとどまらず、
「正法の功徳」によって、両親をはじめとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところに極まるのです。
したがって、仏法では正法による考養を「上品(じょうほん)の供養」(もっとも勝れた供養)と名ずけるのに対し、
道徳における一般的な考養は、いわば「下品(げほん)の供養」(上・中・より下位の供養)に当たるとされています。
大聖人は、
「法華経を信じまいらせし大善(だいぜん)は、我が身、仏になるのみならず、父母仏になり給う。
上(かみ)七代、下(しも)七代、上無量生(むりょうしょう)、下無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給う。
「願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と皆ともに仏道を成ぜん。」」
と「正法を行ずる大善」こそ、自ら仏の境地に至るのみならず、
無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。