※座談会御書解説より抜粋、法蓮抄

「通解」

どのようにして、このたび、法華経の信心をとるべきであろうか。

信が無くてこの経を行ずることは、手がなくて宝山に入り、足が無くて千里の道を歩こうとするようなものである。

ただし、近い現証をもって、遠いことに対する信を起こすべきである。

「解説」

本抄は、身延の地から下総の国に住む曾谷入道殿にあてられた御書です。

今回引用の箇所では「信」を深めることの大事について述べられています。

 

末法における仏道修行で、最も大切なものは「信」であることを、教えられています。

もしこの「信」が無いまま、日々の修行を形どおりに行っていたら、それはあたかも、「手無くして宝山に入り、足なくして千里の道を歩こうとする」ようなもので、何も得ることができない、と仰せです。

 

もったいなくも、わたしどもが日夜に拝みまいらせる御本尊は、「主・師・親の三徳」を兼ね備えられた日蓮大聖人の御生命の御当体であります。

 

その御本尊を「生身の大聖人」と心から信じ、真剣な唱題を重ねるとき、自らの生命が御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)して仏界が涌現(ゆげん)し、力強い生命力・勝れた智慧。

 

深い慈悲心、等を体現して、悩み多き人生を乗り切っていくことができるのであります。

 

しかしながら、いかに広大無辺の御力・御徳を有する御本尊を受持していたとしても、自らの「信」が弱く、境智冥合できるまでの唱題になっていなければ、その御力をいただくことはできません。

 

まことにもったいないかぎりであり、そのような姿を大聖人は、「宝の山の中に入りながら、手がないために何も持ち出すことができないこと、あるいは、千里の道を行こうとしても、足が無ければ目的地まで歩けない、というのと同じである。」と仰せです。

 

六十七世日顕上人は、御本尊に唱題する功徳について、

 

「本当に唱題行が進んでいきますと、自分自身のあらゆる心が慈悲の心となっていき、たとえ自分に仇(あだ)をなすような人があったとしても、いつの間にかその人がかわいくなっていくのです。

これは自分自身の心そのものが一つの「妙」の用(はたら)きをなすのです。

皆さんもぜひ、これを体験してみてください。」

 

と仰せですが、まことに尊い仏様の御境涯に、感嘆するばかりであります。

 

わたしどもも、このように功徳を積んで、少しでも尊い御境涯に近づいていくことができるよう、日々信を深めて真剣な唱題に励んでまいりたいものです。

 

さらに大聖人は、現世において、仏法の正しさを証明する数々の現証を目の当たりにしたならば、それをもって、遠き信・・すなわち目に見えない「三世の因果」、「不成仏」、「御本尊が仏の生命の御当体であること」等々も、事実であると確信していきなさいと、おおせられています。

 

わたしども凡夫はともすると、目で見ることができない事象については、その存在を深く信ずることができない傾向があります。

 

しかし、道理・証文・現証のそろった事柄を信じないとしたら、それは大聖人が

 

「山を隔てて煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいわん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず」(御書1001ページ)

 

と仰せの愚かな姿であり、そのような人は「信」の薄さゆえに、大した功徳を頂戴することもできず、ついには成仏も叶わなくなってしまうでありましょう。