※正しい宗教と信仰
・現在は信仰するほどの悩みはない
「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、いいかえると、
「悩みのない人は信仰の必要がない」ともとれますし、信仰を正しく理解していない言葉です。
仏様がこの世に出てこられた目的は、仏知見(ぶっちけん)、すなわち「いかなるものにも壊れることのない清浄で自在の境地」と、
「深く正しい知恵」を衆生に対して開き、示し、悟り、入らしめるためであると「法華経」に説かれています。
そして、法華経宝塔品(ほうとうほん)には、
「この経を読み持(たも)たんは、これ真(まこと)の仏子(ぶっし)。淳善(じゅんぜん)の地に住(じゅう)するなり。」
と説かれ、正しい仏法に帰依する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏な境地に住することができると教えています。
日蓮大聖人も、
「法華経は現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)の御経なり。」
と仰せられているように、安穏な境地とは現在ばかりではなく、未来にわたるものでなければなりません。
楽しいはずの家族旅行が事故にあって一瞬にして悲惨な状態になったり、
順調に出世コースを歩んでいた人が一時の迷いから人生の破滅を招いたりすることはしばしば耳にすることです。
今が幸せだからそれでよい、という人はよほど自分だけの世界に閉じこもっているか、直面している問題や障壁を認識できない人といわざるおえません。
私達の周囲をみても、家族や周囲にかかわる悩みはまったくないのでしょうか、
子供の教育問題や、親やまたわ自分の老後の問題などを考えても、
「今の生活で満足だ」とのんびりとしているわけにはいかないと思います。
大聖人は、
「賢人(けんじん)は、安(やす)きに居(い)て危うきをおもい、佞人(ねいじん)は危うきに居て、安きをおもう。」
と仰せられ、賢人は安穏なときでも危機を想定して心を砕いているが、
考えが浅く、へつらうことばかりを考えている人(佞人)は、危険な状態になっても安逸(あんいつ)をむさぼろうとするだけである、と説かれています。