※正しい宗教と信仰
・他の宗教によって現実に願いがかなったので信じている
日蓮正宗以外の宗教を信じ、商売が上手くいった、とか、病気が治った、という人がいます。
また日蓮正宗に入信しても、はじめは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。
しかし、正しい仏法とは私たちに正しい「本尊」と「修行」を教え、身心両面にわたって育成練磨し、「仏の境界」に導くことを目的としています。
「正しい仏道修行」をすることによって、いかなる苦難や障害がおきても、それを乗り越えていける人こそ「真に幸せな人」なのです。
困ったときだけ、「拝み屋」のような宗教にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。
たとえば、勉強しない子供に試験のときに「答えだけ教えて」、良い点を取らせたからといって、その子の学力が向上することにはならないのと同様です。
もし、現在悩みがあったとしても、「善因」をつんで「善果」を生ずるように、
その原因をよく知って、正法正義(しょうぼうしょうぎ)に帰依しなければ真の解決にはならないのです。
悩みや問題は、人それそれに様々な形がありますが、その人の生い立ちや周囲の「縁」、年齢や心がけなどによって解決の形も異なってきます。
たとえば、種をまいてもただちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、
「時」と「機」が熟さなければ解決しない場合もあるのです。
「誤った宗教」に縁した場合、願いがかなったこと以上に生命が汚染され、将来大きな苦しみを生ずる「業因」となることをよく認識しておいたほうがよいです。
日蓮大聖人は、
「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りと成るべからず。
魔王・魔民等、守護を加えて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)にはその身も檀那(だんな)も安穏なるべからず」
とおおせられ、
一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(行い)に過ぎないと説かれています。
そして、日寛上人も大御本尊の利益について、
「この本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱うれば、
すなわち祈りとして叶わざる無く、
罪として滅せざる無く、
福(さいわい)として来たらざる無く、
理としてあらわれざる無きなり」
と仰せられています。
真実の祈りは、正法正義による仏道修行によってのみ叶うのです。