※正しい宗教と信仰

・厄年はあるのか

 

世間では、四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄だ、と言って心配している人が大勢います。

 

しかし、日蓮大聖人は、

「三十三の厄(やく)は、転じて三十三の幸(さいわ)いとならせ給うべし。

七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生(しちふくそくしょう)とはこれなり。年は若うなり、福は重(かさ)なり候べし。」

 

と妙法の信徒にとって「厄」はけっして恐ろしいものではなく、むしろそのときこそ若さは増し、はつらつとして福徳(ふくとく)を積むことができるのだ、ということを教えられています。

 

「厄」という字は、もともとは木の「節(ふし」のことで、木に節があると製材や木工の作業に困ることから転じて、災いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。

 

また「厄年」の年齢区分についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、

 

昔は人間の一生の節目(ふしめ)に当たる「年祝い」の行われた年齢で、青年が壮年組に入り、

 

村人のために諸種の「役」を得る資格を得、また壮年より老年組に入る「節目」のことで、けっして忌み嫌うことではなかったのです。

 

また、女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でもひとつの「節目」に当たる時期だったようです。

 

大聖人は、

「厄と申すは、たとえば賽(さい)には角(かど)、升(ます)には角(すみ)、人には関節、方には四すみの如し。」

 

とサイコロの角、升のすみ、人体の関節、方位の四隅などのように、「厄」とは人生における大事な節目のことなのだ、と教示されています。

 

そうした時期に、単なる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合わせをして思い悩むのは、まったくばかげたことだといわなくてはなりません。

 

また世間の迷妄(めいもう)に紛動(ふんどう)されて、神社や他宗の寺で「厄払い」などを頼む人は、


大聖人が、

 

「善(ぜん)を修すると打ち思いて、又、そばの人も善と打ち思いてある程(ほど)に、思わざる外(ほか)に悪道(あくどう)に堕(お)つる事の出(い)で来(き)候なり。」

 

と説かれているように、かえって「災い」や「魔」が競うのです。

 

大聖人の、

「厄の年、災難を払わん秘法には「法華経」には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな。」

 

との教えどおり、この厄年の節目のときこそ、「邪信・邪説」に惑わされることなく、

 

正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮い起こして、「七難即滅・七福即生」のより輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。