「真言宗」は、東寺・高野山金剛峰寺を本山とし、弘法大師空海の立てた真言密教を説く宗派であります。

「大日如来」を根本仏として、「大日経」・「金剛頂経」を所依の経典とし、大日経に説かれる「胎蔵界(たいぞうかい)」の曼陀羅と「金剛界」の曼陀羅を礼拝の対象としています。

 

「真言宗」の所伝では、大日如来が大日経・金剛頂経を説き、それを「金剛薩埵(こんごうさった)」が結集(けつじゅう)して、その後、「竜猛(りゅうみょう)菩薩(竜樹)」が竜智に伝えて、「善無畏(ぜんむい)」に伝え、「金剛智」に伝え、「不空(ふくう)」、「恵果(けいか)」、「空海」に伝わっていると主張しています。

 

善無畏は大日経をインドから中国に伝え、天台僧の一行(いちぎょう)と共にこれを翻訳しました。

 

しかし、そのころすでに法華経が広まっていたため、善無畏は一行に、本来、大日経にはない法華経の経理を取り入れた「大日経書」を書かせ大日経が法華経よりも優れた教えであると説きました。

 

「空海」は、釈尊を「無明(むみょう)の辺域とし、大日如来に劣ると貶(おとし)めているが、日蓮大聖人が「諸宗問答抄」に、

「父母なし、説く所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来なり。」

と仰せのように、大日如来はこの世に出現したこともなく、衆生に法を説いたこともない、すなわち名のみあって実体のない架空の仏に過ぎない。

 

これに対して釈尊は、インドに出現して実際に人々を教導した仏であり、この実在の釈尊を架空の大日如来に劣るとする空海の主張は空論であります。

 

空海は、釈尊の教えを「方便の教え」とし、大日如来の説いた大日経は「真実にして密経」であるとして、「法華経」を真言よりも三重の劣であり「戯論(けろん)の法」だと貶めている。

 

しかし、大日経をはじめとする真言所依の経(寄り処としている経典)は、悪人・女人の成仏や二乗作仏・久遠実成を説いておらず、一切衆生が成仏できる教えではない。

これらを説き明かして「一切衆生の成仏」を開いた「法華経」よりも、はるかに劣る経典であります。

 

「法華経」には、

「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中において、最もその上(かみ)に在(あ)り」

「一切のもろもろの経法の中において、最もこれ第一なり。仏はこれ諸法の王なるが如く、この経もまたまたかくの如し。諸経の中の王なり」

 

と説かれ、「法華経」こそ一切経において最勝の経典であり、「真実の秘密経」であることが明かされています。

 

したがって、「法華経」を誹謗する空海の主張は、

「もし人信ぜずして、この経を誹謗せば、則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ぜん。」

 

と説かれているように、人々の仏種を断じて悪道に導く「大謗法の邪義」であります。

 

善無畏(ぜんむい)が一行にかかせた「大日経書」に、大日経にも法華経と同様に書法実相(しょほうじっそう)・久遠実成(くおんじつじょう)が説かれていると主張している。

 

しかし、前述したとおりこれは「法華経」から言葉を借りてきただけの盗作であります。

日蓮大聖人は、「神国王御書」に、

「善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、等の三三蔵は法盗みの元師なり。盗人の根本なり」

と仰せのように善無畏等が法華経の大事を盗み取って大日経を最勝と偽ったことは、法盗人の大罪であると説いています。

 

宗教というものは、簡単に人の人生を動かしてしまう力があり、親が子に似るように、生徒が先生に似るように。

教えの中身に触れた人は、そのように知らず知らずに染まっていくのです。

 

真言宗のお寺では、お祓いと称して神主のまねごとのようなことをするところもありますが、これももともと「真理の道」からいっても外れていて(神社事態に人を正しく導く神もおらず)、そんなものに邪を振り払う力もなく。

 

人から借りてきたものを、さも自分のモノのようにしてやってもなんとも思わないのは教えに反映されたことであり、「理論」と「実証」の形がそこに現れているわけであります。

 

弘法大師空海は、昔話の中でもいろいろなところにさまざまな逸話をもたらしています。

不思議な力を使って人々に幸せをもたらした話、など。実際に通力(超能力)が伝えたのかもしれません。

 

しかし、法華経を正しく学んでいる方は知っていると思いますが、「通力」では本当の幸せに導けませんし、たどり着けません。

実際、釈尊の多くの弟子達も「通力」は使えたとされていますが、それでも通力では大事な人を苦しみから救うことはできませんでした。

 

「法華経」を学び、修行することによって、ようやく自分も大事な人も「仏」となり、本当の幸せに到達しました。

 

 

空海は、「真言密教」によって「即身成仏」がかなうと述べていますが、日蓮大聖人は、所依の経典に即身成仏が説かれていないため、その境界を成ずることはできない、と仰せであります。

 

理(理論)がないため、事(事実、実証、証拠)がそこにないのです。

しかし、「法華経」には「理」も「事」も存在します。

 

実際、自分もこの目で「仏の相」を持って亡くなられた方を多く見たことがあります。

亡くなられた方の姿(臨終の相)は、「死後の生命の姿」が明らかに表れた形なのです。

人生の積んできた善と業の行の現れ、そして、未来世への旅立ちの姿が「臨終の相」なのです。

 

強張った顔で亡くなられたなら、遺体の変色・腐食などがあるなら、生命が「そういう状態」にある、ということ。

 

しかと「法華経」をちゃんと修行されている方は、亡くなられたあとの「死後硬直」はありません。肌の色が少し白くなり、皮膚も柔らかく。

「正しい教え」を信心してきた「理」と「事」がここに証明されているわけであります。

 

釈尊に背いて法華経を誹謗する真言宗は国を滅ぼし、人々を無間地獄に落とす悪法であると仰せです。

 

空海ゆかりの八十八か所霊場を巡礼する四国遍路を行うことで利益があると吹聴していますが、これも根拠のないまやかしであります。

 

また、不道明王・愛染明王などを本尊として護摩(ごま)を焚(た)く修法によって災厄を払い、所願を達成できると宣伝していますが、「真言の教え」自体が真の成仏を説く「法華経」に背く故に、帰って不幸を招く呪法となるのを知っておくべきです。