就注法華経口伝(御義口伝)下
・通解
功徳とは六根清浄の果報である。
つまり、日蓮大聖人の一類、南無妙法蓮華経と唱える者は、六根が清浄となるのである。
功(く)も幸(さいわ)いということである。
また悪を滅することを「功」といい、善を生ずることを「徳(とく)」という。
功徳(おおきなるさいわい)とは、即身成仏であり、また六根清浄である。
法華経に説かれるとおりに修行すれば六根清浄となる、と心得るべきである。
・解説
引用の箇所は、「法華経法師功徳品(ほうけきょうほっしくどくほん)第十九」に、五種の妙行(みょうぎょう)すなわち、
受持(じゅじ)・読(どく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写(しょしゃ)の修行をする人(五種法師(ごしゅほっし))の功徳について、
「この人は、まさに八百の眼(まなこ)の功徳、
千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、
八百の身(しん)の功徳、千二百の意(い)(こころ)の功徳を得べし。
皆、清浄ならしめん」
と説かれている文について講述(こうじゅつ)あそばされた箇所です。
「南無妙法蓮華経と唱える者は六根清浄なり」
末法における正しい法華経の修行とは、自行化他(じぎょうけた)にわたって、南無妙法蓮華経と唱えること、
すなわち戒壇のご本尊を信じ、唱題と折伏を行ずることでありますが、その功徳により衆生の六根が清浄になり、
即身成仏の境界を得ることができる、と説かれています。
六根「眼(げん)・耳(み)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)(心)」は、人間の生命が外界の事象と接し、
それを認識するための機能でありますが、その六根それぞれに、種々の煩悩の汚れがあるために、我々凡夫の人生には迷いと過ちが充満してくるのです。
つまり、汚れた歪んだ六根により、人としての正しい理解・正しい判断・正しい行動が損なわれ、迷いと過ちに充ちた人生になっている、ということです。
しかして、ご本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えることにより、生命の奥底に仏界が涌現(ゆげん)し、その力用によって、六根の汚れを除き歪みを根本的に直すことができるのであります。
人々のそれぞれの悩み苦しみは、過去・現在からの積み重ねてきた多くの「罪障(ざいしょう)」が形となったのものですが、
それは、六感の奥、無意識の七感のさらに奥に刻まれたものです。その、八感・九感に働きかけ、清浄なものにし、
前を向いて生きていく力をくれるのが、ご本尊とお題目(南無妙法蓮華経)の力なのです。
それは、ほかの「作り物」を置いているお寺では出来ませんし、「モノノケ」しか住んでいない神社等も清浄な道には導いてくれませんので覚えておいてください。