※信仰のさんぽ道2より抜粋

・縁とは不思議なものです

宮城県仙台市では、多くのイチョウが街路樹として植えられているそうです。

しかし、アスファルトに植えられた「銀杏(イチョウ)」は、いい迷惑な話であります。

それを「因縁」といえばそれまでですが、せっかく大地に根を張り実をつけてその実を下に落としても、そこはアスファルトです。

 

せっかく花を咲かせて実をつけても、芽吹くはずはなく、銀杏の種としては、実に哀れな結果となります。

 

しかし、もしこの銀杏の木が広大な土の上にあったなら、銀杏は芽吹くでしょうか。

 

かならずしも、そうとは言えません。

実がアスファルトだろうと岩盤だろうと、土の上だろうと、大地に根付くものは根付き、根付かないものは腐ってしまいます。

 

たとえば、岩の上にある木がその下の岩盤の上に実を落とせば、普通その実は、たとえ芽を出しても成長しないだろうと考えてしまいがちですが、

 

・もしも木の実が落下するときに強い風が吹いて木の実を土の上に吹き飛ばしたなら。

・もしも実を食べた鳥がフンと一緒に大地に落としたなら。

・もしも鳥や動物が、その実を土中に隠したまま忘れてしまったなら。

 

 

そんな条件が加われば、その実は芽吹き成長する可能性が高くなります。

 

この場合、強い風や鳥、動物が「縁(えん)」となって種子を育てる結果となるのです。

 

私たちがよく「因果(いんが)」という言葉を口にしますが、因と果の間に「縁(えん)」が存在することを忘れてはいけません。

 

たとえば、人の行動で「良いこと」をしたからといって「良い結果」が出る。「悪いこと」をしたからといって「悪い結果」が出るわけではなく、

 

あいだに「縁」が介在(かいざい)することによって「善い結果」にも「悪い結果」にもなり得ることを覚えておいてください。

 

 

わたしたちの人生、いつ、どこで、どんな悩み苦しみにあうかわかりませんが、

あるとき、一人のご婦人が日蓮正宗のお寺を訪れたそうです。

 

ご婦人が言うには、

「少し前に人生を悲観して、駅のホームの椅子に座って、飛び込もうかどうしようか八時間ほど座って考えていました。


そのとき、ふとお寺のリーフレットをもらったのを思い出して、行ってみよう思い、飛び込むのを踏みとどまることができました。」


というのでした。

 

まさか一枚のリーフレットが、人の命を救うことになるとはまったく想像もしていませんでした。

見知らぬ人が配った一枚の紙。

これを読んだ人の心を引き付けたタイミング。

たった一枚の紙が人の命運(めいうん)を左右する。そんな不思議なものが「縁」というものなのです。

 

日蓮大聖人は、

「おのずから、よこしまに降る雨は、あらじ風こそ夜の窓をうるらめ」

と和歌をお読みになりました。

 

そもそも雨水は、空からまっすぐに落ちてくるものですが、その水滴もいつしか風という「縁」にしたがって、横なぐりの雨になり窓を打つようになります。

 

ほかの例えでも、本来は横に広がって育つ草の「ヨモギ」であっても、麻畑の中に入れると真っすぐに伸びるといいます。

 

つまり、人や他の動植物、または様々な現象は「縁」の影響によって大きく変化していくということです。

 

世間でも「まかぬ種(たね)は生(は)えぬ」と言われていますが、私たちの命にある仏の種を芽吹かせ成長させるには「正しき仏縁」が重要となってくるのです。

 

だからこそ、日蓮大聖人は、

「私が法を説けば、多くの人にとって、未来まで仏種(ぶっしゅ)を受け継ぐことになるので、みんなが成仏することができるようにするために法を説くのです」

と仰せです。

 

私たちは日常の日々で、様々な人と出会いすれ違って、時が過ぎていきます。

 

私たち自身がよいご縁となれるよう、出会った人へ善い仏縁の変化をうながせるよう、修行を忘れずに日々を過ごしていきたいものですね。