※ご金言集より抜粋。教訓の部。

「天下泰平」、「国土安穏」は君主の願うところでもあるのと同時に民も願うところです。

国は「法」によって栄え、「法」はそこで暮らす「人」によって尊(たっと)ばれる。

国が滅びて、人がい亡(な)くなれば仏を誰が崇めるだろうか。法を誰が信ずるだろうか。

まず、国家を祈りて、すべからく仏法を広むるべし。
(立正安国論)


「生」を受けてから、「死」をまのがれる理(ことわり)はないことぐらい賢い者であっても、卑しき民であっても知っているものです。

しかし、おのれの知識でこれを知っているとしても、実にこの「理」を大事だと思い学ぶ者、千万人に1人もいないのです。

先立つ者は、はかなく見えるだろうか、命とどまり、ながらえる者は賢く見えるのだろうか、

周りがこうやっていたので真似て生きてみようか、だの、今日は今日の風が吹く、だの、悪戯に世間の五欲にほだされて、

積み重ねた善行は薄く、知らずに積み重ねた業は大木より高い。


業の因が積み重なり、形となりおのれの前に現れようとしているのに、その歩みに恐れることを知らず、

虚しく毎日の生活の「欲の獄(ごく)」につながれて、六道(ろくどう)を輪廻(りんね)する。

その心をなげく者もないのです。
(聖愚問答抄)


人の心というものは、水の入った器の様なものです。
動き、揺れるたびに波打つ。
その波の度合い、器の状態も人は推し量れる者はおりません。

物の性質などは、月の波に動きが似ています。

故に、その時あなたは正しい法を聞いて、「信じる!」と言えども、後になって心を翻(ひるがえ)す人も少なくありません。

これは、その者の積み重ねた「業」によるものでもあります。
正しい仏法に縁していない者は、「正法」を疑い、憎む者すらいます。

しかし、この世の中には、「正法」に縁させないようにする「魔(ま)」というモノが遥か昔から存在しています。

「正しい仏法」を聞かせまいとする働き、その者を正法から遠ざけようとする働き。

これは修行している者も、皆、影響を受けています。

しかし、「法華経」または「妙法(南無妙法蓮華経)」は「獅子の咆哮」と言って、魔が近づいてきても、(南無妙法蓮華経を)唱え続けることによって必ず魔を振り払えるのです。


それによって、あなたの生きている世は必ず安穏となり、その後の「生」も「徳の溢れた場所」に生まれ出でることが経典に書かれています。

経典に書かれていることに、つじつまの合わないことはないのです。

(聖愚問答抄)