道妙禅門御書(どうみょうぜんもんごしょ)
・通解
御父上の祈祷のこと、承知しました。
ご本尊の御前にて御記念申し上げましょう。
祈祷には、「顕祈顕応(けんきけんのう)」・「顕祈冥応(けんきみょうおう)」・「冥祈冥応(みょうきみょうおう)」・「冥祈顕応(みょうきけんのう)」という四種の祈祷がありますが、
ただ肝要なことは、
この法華経の信心をされるならば、「現在および未来にわたって所願が満足する」、ということであります。
法華経第三巻の授記本(じゅきほん)には、
「魔および、魔民があったとしても、ことごとく仏法を守護する」
と説かれています。
また第七巻・薬王品(やくおうほん)の
「この経を信受すれば、病即消滅して不老不死となるであろう」
とあります。
この御金言を疑ってはなりません。
・不老不死-ここでは、身体は老いても、常に生命力に満ち、
死んでも崩れない三世にわたる幸福を得ること。即身成仏の境涯。
・解説
本抄は、建治二年、大聖人が五十五歳の御時、身延においておしたためになられた御書です。
道妙禅門という方については、本抄を賜った妙一尼の家人であるという説もありますが、詳細は不明です。
鎌倉に住んでいた妙一尼が、大聖人のもとを訪れた際、
道妙が妙一尼に託して、父親の病気平癒の祈願を大聖人に依頼申し上げたことに対するご返事の御手紙であります。
道妙という信者から、父親の病気平癒の御祈念の願い出があったことを受け、
大聖人はさっそく御祈念申し上げましょうと、
こころよくその願いをお聞き届けになられ、
さらに祈祷のあり方と、その功徳の顕れ方にはいろいろな形があるが、
純粋に正法の信仰を貫くならば、
現在のみならず未来にわたっても、必ず所願満足の悠々とした人生をおくることができる、
と御慈悲にあふれたお言葉を記されております。
このお手紙を妙一尼を通して賜った道妙は、
これほど感激し、心強く思われたことでありましょう。
大聖人は、諸御抄において、御本尊に強盛に祈っていくならば、
どんな祈りも必ず成就することを示されておりますが、
さらに本抄においては、祈りの成就に四通りあることを御教示くださっております。
まず、「顕祈顕応(けんきけんのう)」というのは、
何かの問題、悩みに直面した時、それをご本尊に祈ったら即座に解決することができた、
というような場合をいいます。
また「顕祈冥応(けんきみょうおう)」というのは、
さまざまな御祈念をした場合に、あるいはいまだ宿業の深きにより、
あるいはこれまでに積んだ功徳が浅軽(せんきょう)であることによって、
その願いが即座に叶わなかったとしても、
ご本尊に題目を唱えた功徳は無駄にならず、
必ず後から良かったと思えるような結果になって実を結んでいくことをいいます。
そのときは祈りが叶わないように見えても、
後々振り返ってみれば、自分にとって最良の方向へ道が開けていた、
という功徳の現れ方が、「顕祈冥応」といえるでありましょう。
「冥祈冥応(みょうきみょうおう)」については、
とくに祈っていたわけではないけれども、長い間に積み重ねた功徳によって、
気づいてみたら、虚弱だった身体が健康になっていたり、
無気力や浮薄な考え方が改まって、人格も向上し、
仕事も積極的にこなせるようになって周囲からの信望も得られ、生活も安定してきた、
というような功徳の現れ方をいいます。
これを例えていえば、昨日植えた種は、
いくら水をやっても一日で大木に成長するはずはありませんが、
一年、三年、五年と年月が経てば見違えるほどの大木となるのと同じことです。
はじめはわからなくても、しっかりと信心を貫いていくならば、
五年、十年と経った時には、入信前の自分からは想像もできないくらい大きく成長している、
という功徳の現れ方が「冥祈冥応の冥益(みょうやく)」であります。
最後の「冥祈顕応(みょうきけんのう)」というのは、
とくに祈ってきたわけではないけれども、いざという時に厳然(げんぜん)と功徳が顕れる場合を言います。
近年頻発している大地震などの自然災害に遭遇したケースでも、
間一髪のところで生命が守られた等の体験が続々と報告されていますが、
これらは皆、長い間積んできた功徳が、いざという時に歴然と花開いた、
「冥祈顕応」の功徳といえるでしょう。
以上、四種の祈りの成就がありますが、いずれにしてもご本尊を固く信じ、
すべて強盛に祈りぬいていくところに、必ずや冥顕の功徳がいただけるのであります。
またさらに大聖人は、父親の病気に直面している「道妙」に対して「魔及び、魔民有りといえども皆仏法を護る」との文を引用されて、
「宿業」や「三障四魔」によって、病気や災いが起きてきたとしても、けっしてひるんではならない、
むしろその苦難をきっかけとして、さらに信力・行力を奮い立たせて仏道修行に励むことが肝要であると教えられています。
私たちは罪業の深い末法の凡夫ですから、病気や種々の問題が起こってくるのは当然のことですが、
その問題を解決すべく、いよいよ発心して唱題に折伏に励むならば、
その苦難はむしろ発心を呼び起こすための仏の計らいということになります。
そして、その功徳によって、
「病気消滅して、不老不死にならん」
との御金言のごとく、あらゆる悪業を打開して、生命力あふれる人生、
すなわち未来永劫にわたって崩れない幸福境涯を獲得していくことができるのであります。