※座談会の御書解説

「開目抄(かいもくしょう)」

・「通解」

われ、および我が弟子は、諸々の法難があろうとも、「疑う心」なければ自然のうちに「即身成仏」の境涯にいたるであろう。

 

天の加護がないように見えても、けっして疑ってはならない。

現世が安穏でないように見えても、けっして嘆いてはならない。

 

我が弟子に朝・夕にこのことを教えてきたが、疑いを起こして、皆、退転してしまった。

 

「愚か者」のつねとして、かねてから約束していたことを肝心なときには忘れてしまうのである。

 

妻子を哀れと思うゆえに、この世で妻子と別れることを嘆いているのであろう。

 

しかし、無始(むし)以来、(最初の命始まって以来)、生死を繰り返してきた間、親しんでいた妻子とは「別れたい」と思って「別れた」のか。

 

それとも、仏道修行を貫くために別れたのか。

いつも同じく、別れは余儀なくおとずれるのである。

 

それならば、まず自分自身が「法華経」の信心を破らず貫いて「即身成仏」し、霊山浄土に参ってかえって妻子を導いていきなさい。

 

・「解説」

いかなる法難(法華経の信心をしているために起こる迫害)があろうとも、御本尊を絶対に信じ奉っていく、それが成仏への直道であると仰せです。

 

「我、ならびに我が弟子」と述べられているように、御本仏日蓮大聖人は、末法の私たち凡夫を救わんがために、

 

大慈大悲を起こされ、示同凡夫(じどうぼんぷ)の御姿(仏が凡夫と同じ姿をもって出生されること)をとって、

 

御自ら末法における仏道修行のあり方をお示しくださっています。

 

大聖人の御一生を拝しますと、命に及ぶ数々の大法難が降りかかってくるなかで、あくまでも妙法を堅く信受するところに、

 

「罪障消滅」が果たされ何物にも崩されぬ「絶対の境界」が得られることを、御身をもって教えられているのです。

 

「法華経」には、この仏法を受持する者は、「諸天善神」の加護を受け、また現世も安穏であると説かれています。

 

ただ諸天の加護をあてにし、安穏な「甘い生活」を夢見ることは、「法華経修行」の姿勢としてはおおきな誤りです。

 

なぜならば、我々には過去のはるか昔からの「罪障(不幸の根本原因」があり、

 

その罪障は、自行化他(じぎょうけた)(日蓮大聖人の教えを伝えること。のちの世のために残された戒壇のご本尊を受持し、自分も唱え、鍛え、整えて、それを他人にも伝えていくこと。)

 

にわたる法華経修行の功徳によって「転重軽受(重い罪障を転じて軽く受けて消していくこと)」すること以外に、消し果てていく道はありません。

 

そして、重罪を軽く受ける際に表れてくるのが大・小の様々な法難なのです。

 

凡夫の愚かさとして、常日ごろ、口には立派なことを叫んでいて、いざ自分自身に難が起こり、苦しみに直面した時には、

 

目先の利害や愚痴の心に動かされ、信心が二の次になったり、退転してしまうことが多いのです。

 

逆にいうならば、大きな苦難に直面したときこそ、その人の真価を問われる時。

 

私たちは、「まことの時」にこそ、仏法の道理を想起(そうき)し、自らの弱い心を叱咤して、正法正義(しょうぼうしょうぎ)の信念を貫きたいものです。