仏法とは、仏になれる法です。

 

その真実の仏法を伝えているのが日蓮正宗です。

 

読んでいる方が、「仏になれるわけないじゃん」とか「そんなものあるわけないじゃん」

 

と思ったならそれは、いままでの価値観がすべて間違っているからです。

 

 

けれどある意味、仏に興味がないその感覚は、いまの時代、

 

仏法の用語でいう「末法」にうまれてきた人が皆そういう感覚で生まれてきているそうです。

 

そのあとから、正しい仏法に触れて、学んで、実感していくのです。正しい法はあるのだと。

 

 

末法時代は、権経といって偽の教えが多く広まり、

 

実教といって真実の教えが隠れて見えないようになっている時代です。

 

また、過去世からの積み重ねた本人の罪障。家族・ご先祖からの因、

 

社会に蔓延してる邪宗の害毒や、人の欲にまみれて生まれ育っていくので、

 

正しい判断が出来る人はほとんどいないでしょう。

 

ですから、この真実の仏法を学ばずに生きている人ばかりで、

 

そんな人がどんなに立派なことをいっても、

 

素敵な人にみえても、やはり道を踏み外しているということです。

 

そして、学んでない人は、そう指摘されても納得しない人も多くいるでしょう。

 

 

仏とのご縁もなく生まれてくる時代なので、仏を渇望することもなく、

 

みなが修行の大切さもよくわかっていないのです。

 

 

なので、この真実の法に触れて・聞いて、少しずつ汚れが洗われてきて、

 

真実がみえてきます。

 

まず五感が洗われてきます。見る・聞く・話す・嗅ぐ・触る。

 

人は、常に思考が動き、五感がフル活動しています。

 

人と出会うとき、外の世界に触れるときにフル活動しています。

 

さまざまなものに流され、引っ張られ、影響され、もしくは影響を与え、生きています。

 

相手や、社会が正しい仏法を学んでいたら、いいのですが、違うことがほとんどです。

 

あなたは引っ張られ、あなたも学んでいないため、道を間違えても気づかない。

 

 

そのことに、正しい仏法を学ぶと気づいてくるのです。

 

 

本当の意味で、それは良いことか悪いことか、の判断が出来てないのですから、

 

こんなに怖いことはありません。

 

 

簡単に仏法の流れを説明しますが。仏法の真髄は法華経です。

http://ameblo.jp/fugennbosatu/entry-12248184994.html

 

 

釈迦がインドで仏法を30歳のときに開眼し広めました。法華経を広めようとしましたが、

 

人々の教学がなかったため、教えがあまりに深遠だったために考え直しました。

 

 

今の人々がわかりやすいように、浅い教えから深い教えに段階をへて教えていったのです。

 

小乗仏教から、大乗仏教へ。この間に42年を費やしています。

 

この間の未然の教え、中途半端な教えが日本にも広まって、いまだに残っているのが、

 

数多くある邪宗の宗派ということなのです。

 

釈尊は、80歳の入滅までの8年間でやっと教学が整ったので、これから真実の法である、

 

法華経を説きます。いままでのものは方便ですから忘れてください、

 

と経典に載っているのに、

 

日本に伝えた邪宗の開祖たちが、ちゃんと経典を学んでいなかった証拠です。

 

しかし、ちゃんと法華経が真実ということが分かって学んでいた方もいます。

 

中国の天台大師などがそうですね。そして、日本にも法華経が伝わってきて、

 

聖徳太子は法華経が大事とわかっていたようです。

 

日いづる国、日本という文献の言葉があるそうです。

 

日本、ということばを使ったのは始めはこの方のようです。

 

インドから伝わった仏法は、日本に伝わり、そして、また世界に帰っていくということです。

 

 

この末法時代に、真実の仏法を伝える方が現れると釈迦が経典にも予証しています。

 

それが、日蓮大聖人なのです。

 

なぜ「真実の仏法」とよくうたうか、といえば、仏法は釈迦が伝えたものですが、

 

「考えた人」ではありません。「伝達者」のようなものなのです。

 

こんな素敵なものがあったんだ、と見つけたので人々に説いてまわったのです。

 

その素敵な法の人の姿が、日蓮大聖人なのです。

 

これは、釈迦の言葉が経典にものっています。

 

 

そして、末法時代になると、釈迦の残したものも、言葉も効果を失うと。

 

 

これは、人々の心根が変わるせいもあるのですが、

 

仏法には、修行に「摂受(はいじゅ)」と「折伏(しゃくぶく)」があります。

 

はいじゅは、相手の意見を一端受け入れて、その上で、こちらの仏法も教学してくださいね。

 

と進めて、仏法へいざなう方法です。これは、釈迦の時代なら成立します。

 

しかし、末法時代には、通用しません。しゃくぶくしかないのです。

 

折伏とは、相手の意見を折り伏して、伝えていくというもの。聞く人、聞かない人、

 

偉い・偉くない関係なく、強いて聞かせなさい・・と言われています。

 

法のご当体である、日蓮大聖人がそう言っているのです。

 

 

仏法には、人の機根が変わっていくなかで、何千年周期でのめぐりがあるのです。

 

そのとき、そのときに人々の機根にあった法をといて導いてくれる仏が現れるのです。

 

末法は、機根が汚れに汚れているため、法の当対である日蓮大聖人が正しい教えと、

 

ご本尊中のご本尊の戒壇の本尊を授け、

 

仏の御名である題目の南無妙法蓮華経を唱えなさい、と。

 

これをもってのみ人々は幸せになれると説いてくださいました。

 

 

ご本尊を拝し、題目を唱えない限り、

 

あなたの本当の幸せには絶対にたどりつけません。

 

 

そして、

「わたしも日蓮大聖人の教えです」・・とうたっている宗派も数多くあって、

 

一般の方にしてみたら間違いやすくてややこしいのですが、

 

血脈を正しく守って、今の時代に伝えているのが日蓮正宗だけなのです。

 

よく、世間の人が間違う人が多いのが「日蓮宗」や「創価学会」です。

 

この宗派・団体の影響も、世界を混沌とさせている原因の一つです。

 

 

いまだに残っている邪宗や、間違った教えは、人々を迷いの道にミスリードさせていますし、

 

世の中を混沌とさせている、大罪をおかしている、といってもよいのです。

 

それは細かくいうと今の時代特有のセミナーや、占い系もそうです。

 

ほんとに細かく言うと、コンサル系もそうでしょう。

 

 

正しい法の仏法を学べばそんなものは必要なくなります。

 

ですから、人々を真実の法へ気づかすためにも、コツコツと折伏し、

 

真実の法へと導くために日々、日蓮正宗の信徒は生きているものと思います。

 

 

日蓮正宗の修行は、とてもシンプルです。

 

日蓮大聖人が残した、戒壇のご本尊を拝み、南無妙法蓮華経を唱えるだけ。

 

ご本尊の南妙法蓮華経如来と繋がることで、御名を呼ぶことで、

 

自分の奥底にある仏界、すなわち最高の福徳に満ち溢れた仏の生命が、

 

力強く湧き出してくるのです。

 

この御尊中の御本尊には、主師親の三徳があります。

 

仏の生命に備わる三つの特性を指したもので、

 

絶対の力をもって眷属を守る主人の働き(主徳)

 

民衆を絶対の幸福境涯へと導く指導制(師徳)

 

子に対する厳父のような慈愛(親徳)

 

 

この三徳がの功徳がご本尊と繋がることで、備わっていくのです。

 

 

仏の姿を見、その御名を呼び、繋がるのですから、

 

その瞬間はすべてのものが洗い流されていくのです。

 

けれど人の心は、ひとたちび、ご本尊を離れると、名を呼ばなくなると、

 

凡夫の者ですから、汚れた姿にもどってしまいます。外の世界に出てもそうです。

 

 

お寺にきて、洗い流されて感動して、でもすぐ退転してしまうのはこういうことです。

 

邪宗の害毒が強いと、とくにそういうことがあります。

 

どんな状況にいても絶対的に揺るがない幸福状態、それを安定させるために、

 

日々の勤行・修行があるのです。

 

自宅での修行や、お寺参詣、ご住職からの仏法のご教授、

 

静岡の本山にあります戒壇のご本尊へのおめどおり。

 

それを続けることによって、仏の道を一歩ずつ歩いていくことになるのです。

 

 

人の苦しみ・悲しみ、家庭不和・病魔に襲われる・事件事故に会う、等

 

すべて、過去世からの積み重ねで出来ています。

 

繋がっているご先祖からの影響もそうです。

 

それを洗い流して、最高の幸福状態にして人生を歩んでいけるのは、

 

日蓮正宗の教え・修行によってしかありません。

 

 

人の五感の奥にある無意識が六感。

 

さらに奥にある七感に罪障が刻まれているとされています。

 

それを洗い流せるのは、唯一ご本尊を拝み、南妙法蓮華経を唱えたときだけなのです。

 

 

そして、この言葉は、法華経の行者・修行するものを守る契約をしている

 

数多くの書天善神がおりますが。

 

そのものたちのご飯のようなものにもなります。この言葉によって威光を増すのです。

 

逆を言えば、今の時代唱えない人が多くなったので神々の力が薄れ、

 

人々を守る威光が無くなり、もといたところから離れてしまっているのです。

 

神々がいなくなり、社には悪鬼魔人が住み尽きて、それも人は凡夫なので判断ができず、

 

そんな魔人を拝み繋がるので、その魔人のような振る舞いをしだし、

 

世の中は混沌としてくるのです。

 

だから、日蓮正宗は神社に行くのを認めていないのです。

 

正しき、仏と神々の拝し方ではないからです。

 

もともとは、社はただの建造物ですし。仏法は、この世の理、ですが、

 

神道は「人が想像の上に作った空想の道」です。

 

ファンタジーの世界に繋がっても、本当の幸せにはたどりつけません。

 

 

ですから、唱えれば唱えるほど善神の力は増し、世界の安定も図れます。

 

そして、自分の罪障は少しずつ消えていき、その威光は家族にも流れていき、

 

先祖にもすべて流れていきます。

 

唱えれば唱えるほど、本当に意味で救うことができ、

 

この仏法の妙法によってのみ世界を安定に導くことが出来ます。

 

 

日蓮正宗には、ご供養として、塔婆供養があります。

 

亡くなった人は当然、唱題を唱えることが出来ません。

 

仏法は、内道の法なので、自分で自分を癒す、活性化させる・浄化させる。

 

そういう法です。

 

それなので、本人の罪状として、大病として形になったものも、ひたすら本人が唱えたなら、

 

皆、病が治ったというより消えた、という人ばかりです。

 

過去の業が形となって出ているので、それを浄化してあげたら、消える、のは道理ですね。

 

 

心も治す、この仏法は、心が壊れた人や、

 

生きる気力をなくしてしまった人、犯罪を犯してしまった人の最良の治療であり、

 

唯一の硬性方法と思うのですが、またそれは余談の話で。

 

 

亡くなった人は、自分で唱えられないので、塔婆というものを作り、

 

それに魂魄をしたためる形として、一緒になって唱題することによって、

 

ご先祖の罪障が消滅できるということです。

 

また、その功徳は大半が自分に帰ってくるといわれます。

 

功徳というのは、一般の方にはご利益と解釈したほうが分かるでしょう。

 

 

さまざまなものに、功徳は発生します。

 

正しき仏法を一般の方に教える。折伏することによっても大きな功徳も発生します。

 

朝・夕の勤行でもそう。お寺参詣、仏法の教学、本山・大石寺の本尊への参詣もそうです。

 

本山の功徳は計り知れません。

 

命の源ともいうべき、ご本尊にお目通りして、罪障が消滅し、生命が活性化し、

 

車椅子で来た人が、帰りは歩いて帰ったこともよくあります。

 

ふてぶてしい性格の人が、粛々とした人にかわることも多い。

 

 

本山のご本尊が基本であるのですが、そちらに毎日お目通りできないので、

 

レプリカ的なものとして、お寺での本尊を拝むのがあり、

 

ご自宅でも拝めるようにと、その時代の法を伝える方を、げいか様と言い、

 

その方が、本尊を書写してくださったものをお貸ししてもらって、

 

信徒は自宅で勤行をするわけです。

 

 

なので、うちでのご本尊を拝んでもその功徳・ご利益は同じという教えもありますが、

 

お寺・本山の本尊・ともに、同じでもあるけど、違う、という一般の人には複雑な教えがあります。

 

なんにせよ、本山のご本尊は本物なのです。

 

ですから、遠方の方は大変ではありますが、それを体験してもらうべく進めたりしますし、

 

信徒としては、本山のお目通りなくしては信徒とはいえないのです。

 

 

ご本尊は、書体物です。

 

偶像でもない。偶像は、釈迦も認めていないのです。他の宗派はたくさんありますけど。

 

中心に、南妙法蓮華経 日蓮とあります。

 

他、帝釈天や大梵天、などの四天があり、多数の菩薩の名や、

 

法華経を伝えた大師の名があり、月・星・太陽・などのたくさんの諸天が並び、

 

日本の神々も、天照・八幡大社や鬼子母神や竜神なども多数並びます。

 

これは、この宇宙の全体像を現しているそうです。

 

その中心に南妙法蓮華経如来がいると。

 

そして、その御名を唱えることがスジであって、

 

よく日本に多くあります神々を単体で拝むのはスジが違うということ。

 

仏法に反していることなのです。

 

このことも学んでいくと、害毒が洗われて何も抵抗はないのですが、

 

はじめは、ほとんどの人が納得しずらいでしょう。

 

 

南妙法蓮華経とは、ただの言葉ではなく、仏の名であり、

 

仏の当体であるのが日蓮大聖人なので、本尊の中心に南妙法蓮華経 日蓮、とあるのです。

 

人の名前のようでもあるけど、仏の名なので、こうなるのです。

 

他の邪宗や教えをちゃんと理解してないところは、このことが理解出来ていないのです。

 

 

しかし、日蓮大聖人も人として生まれ厳しい修行を行った結果、仏となりました。

 

釈迦も修行の末に仏となりました。正しい修行をすれば仏となれるという道理です。

 

その末法の修行が、ご本尊を拝み、題目を唱えること。

 

それによって、私達も必ず仏となれる、という道理がここに成立します。

 

これが仏法なのです。

 

どこで生まれたか発生したか分からない神の話は理に反します。

 

それは、存在しないことと同じです。

 

 

 

そして、南妙法蓮華経の言葉にすべての法の意味も内在しています。

 

文字では書ききれないほどの内容ですが、それゆえに、この仏の名を呼んで、

 

ご本尊を見、唱える・勤行することが今の末法唯一の修行であり、

 

世間で言う、滝に打たれたり、火の上を歩いたり、アトラクションのようなことなど、

 

一切意味がないのです。

 

 

宗教には、必ず、高低・正邪・浅深があり。それらを踏まえたうえで、検証したうえで、

 

この日蓮正宗の教えが最高峰であることを説いています。

 

自分たちも説明できますが、

 

邪宗の坊主たちは教学もあやふやなので説明できないものも多いのです。

 

つじつまが合わないので、説明できるはずもありません。

 

こうして、中途半端な教えでは本人も救われず、家族もご先祖も、周りの者も救われません。

 

教えにひっぱられてそういう人生を歩むわけです。

 

これでは、いけません。ですから、邪宗を折伏するのです。

 

 

南無妙法蓮華経を唱えることで、その人が本当の幸せに気づくことが出来るのですが、

 

より多くの人が、これを唱えることが、世界を安定させることを担っているのです。

 

これを読んでいる人の、

 

より多くの唱題(南妙法蓮華経)が世界を救うことに繋がっているわけです。

 

ですから、みなに説いていく。すべての人に知ってもらう必要があるわけです。

 

 

 

教えを守らないもの。これを法をそしる、とかいて謗法(ほうぼう)といいます。

 

法謗を犯しているものは、酷なようですが厳しい罰があります。

 

といっても、これは仏が下しているわけではなく。

 

仏法とは、この世を幸せに歩むための道理を説いていて、

 

暗闇の中での真っ直ぐ歩ける地図を渡しているもので、

 

その地図の通りに歩くのが嫌だ、と言って、勝手に歩いていたら、

 

それは、怪我しますよ。がけに落ちたりしますよ。その怪我は仏のせいではありませんよ、

 

そいうことです。

 

仏は、常に、この世の人達にいかにして法華経を理解してもらおうか、

 

うまく導いていくためにはどうしたらいいか、ということだけを考えている者なのです。

 

 

一切の法である仏法を受持しないものや、その教えからはずれて生きているものは、

 

大きな仏罰があり、そして残念ですが、命が終わったあと必ず地獄に落ちます。

 

命というものは、肉体がなくなるだけで、まだまだ生命はずっと続くのです。

 

 

そして、基本、私達、末法に生まれてきた者たちは仏との縁がないために、

 

一度地獄に落ちています。

 

なので、この時代に生まれてきてしまっている、ともいえます。

 

記憶にはないですけどね。

 

記憶にあったらなら、気が狂いそうなほどの罰を延々とうけて、

 

転生をしてきているそうです。

 

 

命を終えると、臨終の相に結果がでます。邪宗や、法華経を学んでいないものは、

 

恐ろしい形相だったり、蝋人形のようなカチカチの死後硬直になったり、

 

顔が毒黒くなったり、

 

それは、肉体の活動が終わり、その姿のところに行ったという証拠なのです。

 

 

日蓮正宗の教えをちゃんと受持しているものは、仏の臨終の相がでます。

 

半眼半句といって、少し目・口を開き、何日かは死後硬直もありません。

 

ほほが逆にピンク色になって、眠っているように、亡くなるのです。

 

 

今、読んでいる人は、家族が自分が亡くなるとそうして、地獄に落ちるということを

 

受け止めてもらいたい。

 

ぜひ、一日でもはやく日蓮正宗のお寺へ行って、

 

ご受戒を受けて信心・教学を続けてもらいたいと思います。

 

 

結局、そのことが自分を救い、家族を救い、本当の幸せにたどり着いて、

 

町を・国を、世界を救うことになるのです。

 

 

ですから、このことを自分は命あるかぎり、

 

コツコツと伝え続けていきたいと思っているのです。