釈尊は、紀元前102年4月8日、中インド・憍薩羅(こさら)国の浄飯(じょうぼん)王と摩耶(まや)夫人の間に、
 
太子として誕生しました。
 
その幼名を悉達多(しったるた)といい、幼い頃から文武両道に秀で、世間的な快楽を嫌って、
 
思想上の満足を得ようと望んで止まなかったといいます。
 
 
 
ある時、太子が四方を見て廻ったところ、
 
腰の曲がった老人、痩せ衰えた病人、葬送される死人などの姿があり、
 
これを見た太子は、人生における生老病死の無常を感じました。
 
そして、、この無常を免れ、人生の苦痛を免れる方法を覚りたいと願って、
 
王城の生活を捨てて出家したのであります。
 
 
このとき釈尊は19歳。深遠の道の探求が始まったのです。
 
 
まず、釈尊は、当時インド一帯に勢力を張っていた婆羅聞(ばらもん)(かーすと制の最上位、宗教の祭事を司っていた婆羅門教の修行者)
 
を歴訪し、種々の学問を学びましたが、いずれも真の解脱の身地位ではないことを知って、
 
自ら修学すべきであると考え、もっぱら断食などの難行苦行を行って解脱の法を求めました。
 
 
12年後、釈尊もついに苦行も解脱の法でないと知り、苦行を捨てて、
 
ほどよく食べ、ほどよく眠り、新たな道をもとめることにしたのです。
 
 
この釈尊の姿をみて父王から遣わされた釈尊と共に修行してきた阿若憍陣如(あにゃきょうじんにょ)ら五人は、
 
釈尊が解脱の道を退転したと思い、
 
軽蔑して去っていきました。
 
が、釈尊はこれに心にかけず、伽耶城(現在のブッダガヤ)の菩提樹下に端座(たんざ)され、
 
沈思黙想(ちんしもくそう)すること49日、
 
ある朝、丑寅の時刻に朗然(ろうねん)と悟って、ついに仏となったのです。
 
 
年まさに30歳、王城を出てから12年がたっていました。
 
釈尊は、いまや仏としての悟りの境地の上から、広く民衆を救済しようと決心しましたが、
 
釈尊の悟った究極の真理を最初から説いたとしても、
 
あまりに深遠な教えであるため、
 
とても民衆の側に受け入れる素養がないと思われました。
 
 
そこで釈尊は、仏智によって一大構想を立てられ、平易な仮説から次第に真実の法門へと、
 
一代50年にわたる説法をなさったのであります。
 
 
この釈尊一代聖教を、説法の順に従って判別すると、下段の図のようになります。
 
 
 
 
図中、華厳(けごん)時・阿含(あごん)時・方等(ほうとう)時・般若(はんにゃ)時・法華(ほっけ)時という五つの区分は、
 
主に説かれた経の名より付けられたもので、
 
一般に五時といいます。
(なお、図の下部に後世に発生した諸宗の名を記したのは、後の勉学の便を計ったものです。)
 
 
この五時説法は、前述のとおり説時の次第によったものですが、
 
これには若干の異説もあって、
 
 
日蓮大聖人が、
 
「大部の経、おおむねかくの如し。これよりいげ、諸の大小経は次第不定なり。
 
あるいは阿含教よりいごに華厳教を説き、法華教よりいごに方等・般若を説く。
 
皆、義類をもってこれを収めて一処におくべし」
 
 
と仰せのように、おおむねは五時にそった説法がなされ、時には対告衆の素養に応じて、
 
種々に前述して方を説かれたのであります。
 
 
また、この五時説法を教の高低・浅深によってみるならば、
 
阿含・方等・般若・華厳・法華の順に教が高く深くなっています。
 
 
 
法華経に次いで高度な華厳教が、なぜ最初に説かれたのかといいますと、
 
ごく簡単にいえば当事のインドで盛んだった婆羅門等の外道の哲理を、
 
仏の悟りの法によって打ち砕き、仏法が尊厳にして勝れる旨を民衆に示すため、
 
そして、同時に、民衆がどの程度まで仏法を聞けるのか、
 
その素養をたしかめるためであった、と考えてよいでしょう。
 
 
 
しかして次の阿含教からは、平易な低い教えから説きすすめ、
 
次第に民衆を調熟(育てること)していったのです。
 
 
やがて42年間の説法を経て、ついに釈尊の真実の悟りを説くべきときが至り、
 
釈尊は、「40年余年には未だ真実をあらわさず」
 
 
「正直に方便を捨てて ただ無上道を説く」
 
等々と述べ、これまでの方便の仮説を払って、
 
8年間にわたる法華経を説いて真の成仏得道の法を示されたのです。
 
 
かくして本懐を遂げた釈尊は、すでに自身の入滅のときが迫っていることを宣言しました。
 
 
そして、紀元前948年2月15日、入滅の当日に、一日一夜で涅槃経(ねはんぎょう)を説かれました。
 
この涅槃経は、法華経の説法を聴いても悟れない、
 
素養の劣った人々のために、重ねて、法華経の真理の一分を説いたもので、
 
真理そのものを明かした法華経に対すれば、
 
むろん劣った経であります。
(一代五時の分類においては、これを法華時とあわせ、法華涅槃時ともいいます。)
 
 
一切を終えられた釈尊は、同日の夜半、
 
拘尺那(くしな)掲羅城(からじょう)の沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の下で、80歳で入滅されました。
 
 
 
続く・・。