ご利益というものは、どの信仰でも、祈り等にでもあるのですよ。
ただ、それでは、本当の幸せにはたどり着かない。
この真実の仏法、日蓮正宗の教えを説いていくことを折伏(しゃくぶく)というのですが。
折りふしていく、ということです。
基本、折伏していくと妬まれ嫉まれますよと釈尊も法華経の中で言っています。
そして、この仏との機根のなく生まれてきている末法の時代では、その反発も強いと、日蓮大聖人も同じく言っています。
しかし、それでも教えを言っていくことが大事であるとも。
あなたの信じているものは間違ってますよ、この世の法である、仏法から外れたら、地獄におちますよ、なんて言ったら納得いかない、怒るのは普通の人の反応でしょう。
しかし、末法に生まれてきた私達は、すでに過去においてさまざまな邪宗を信仰し、あるいは、正しき御本尊に背き、謗法(ほうぼう)を重ねてきたわけです。
法をそしる、とかいて謗法といいます。
そういう衆生が末法に生まれてきているわけで。
末法という争いが多く、人と人が騙しあう、汚れきった世の中に生まれてきてしまうのは、自分達が過去遠々の昔から、生まれては死んで、死んでは生まれる、
という繰り返しの中で、さんざん真実の御本尊に背き、
邪宗を信仰したり、謗法の罪の報いとしてきたことで末法という、濁った時代に生まれてきたわけなのです。
過去から作った罪障のために、この世で、家庭不和になったり、大病になったり、大怪我をしたり、職を失ったり、因のあるものと衝突したり、すべての苦しみ・悲しみが発生する、と。
それの罪状・宿業を消していく方法は、日蓮正宗の御本尊を拝し、南無妙法蓮華経を唱えていくしかない。
と話しても、基本、普通の人は、この世の欲の渦や、自分の欲、過去からの罪状により、五感も汚れ、正しい判断が出来る人はほとんどいません。
しかし、相手が反対する人であろうが、どうであろうが。聞きたがる人で、あろうがどうであろうが。
どんな地位の人であろうが、とにかく説いて聞かせる。
それが、末法で唯一有効の、相手を本当の救いの道へ向かせる、
日蓮大聖人が残した下種仏法であるということです。
信仰するしないは、二の次ですべての人に説いて話さないといけないのには、理由があります。
この末法時代が、権教という仮の教えや宗教と実教という真実の教えが乱立して、真実の教えが見えないようにして広まらないようにしているからです。
これは、人が説くものすべてに言えます。今の時代特有のセミナーのようなものもそうです。
仏との機根のない状態で生まれてきたこの世の人たちに、仏の種を植える、下種仏法。
もっと言えば、釈迦の時代の仏法は、
人の心に機根があったので、別の種類の脱益仏法です。
そして、この下種、熟益、脱益のめぐりを何千年何万年もかけてめぐって、
そして、それぞれに、上行菩薩や、弥勒菩薩などがでてきて、
衆生に説いている、ということです。
末法は、日蓮大聖人が説いたわけです。
信じる人はもちろん救い。反対する人も、また来世できっといつか仏の種が開花し救うことが出来る。
日蓮大聖人が残した、南妙法蓮華経の御本尊を拝み、
題目を唱えることですべての罪状が消えて、本当の幸せにたどりつけます。
信心してる人でそうならなかった人はいません。
幸せの種類も、一般のそれとは違うと思いますが。
日蓮正宗はこの真実の仏法を800年伝えています。
この世のすべての現象を解き明かしたものが仏法であります。
逆をいうとその正しき道から外れているから問題が起こる。
仏法に現象に勝るものはない、と言う言葉があります。
邪宗を信仰している人、しなくても間接に関われば、
かならずその度合いの分の影響がでます。
邪宗に縁して、横難横死したり、狂乱・悶絶死や、うつ病や、首吊りなど、よく聞くものです。
仏になれる法とあるのが仏法です。
それが日蓮正宗の仏法です。
過去からの罪状を消滅し、邪宗の縁を断ち、信心した先に、
絶対的な幸福境涯に達することができると言われています。
これは、どんなことが起きても動じない幸せな精神状態のことです。