【再投稿】『在日認定』問題の解決には通名禁止が有効では? | Fugenのブログ

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 南朝鮮の大法院(最高裁)が日本企業に「元徴用工」への賠償を命じた判決で、南朝鮮政府の本性が露わになったと、私は感じています。ますます、在日朝鮮人への日本人の目も厳しくなると思います。日本国民の民意を尊重して南朝鮮政府に正しいメッセージを送るためにも、日本政府も在日朝鮮人への厳しい対応が必要になるでしょう。そして、在日朝鮮人にも身を正す覚悟が必要だと、私は思います。

以下、2014年9月25日に書いた記事を一部編集し再投稿します。

(注)文中の「朝鮮人」とは「南北朝鮮人」の意

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 凶悪事件があると、ネットでは容疑者を根拠もないのに「在日朝鮮人」呼ばわりする、いわゆる『在日認定』が始まるそうです。確かに反日朝鮮人や反日左翼から『ネトウヨ』と尊敬されるブロガー(私もその一人らしいです)の中に、そういう類いの記事を書く人もいることは、私も知っています。

そして、容疑者が例え日本国籍をもっていたとしても、『純な日本人』ではなく、『帰化した在日朝鮮人』だの何だのの噂は絶えないことも事実のようです。

 

何故、凶悪犯罪の容疑者などが『在日認定』されるのかというと、理由は単純で誰が在日なのかわからない、区別がつかないからです。そして、普段から何となく怪しいと思っている(思い込んでいる)得体のしれない連中がいれば、凶悪犯罪がおきると、「やっぱりあいつらがの誰かが犯人だ」と思うのは、人間の性(さが)であることは、善悪は別として現実だと、私は思います。

 

そして、在日朝鮮人への『日本人のヒドイ差別』を訴える一方で『通名』を便利に使って、在日朝鮮人が都合よく姿をくらましているのでは、一部のブロガーが凶悪犯人を『在日認定』するのを止めることはできません。姿をくらますのは、諜報戦には有効でしょうが、社会問題解決には逆効果でしょう。

 

 一方で、『保守系』ブロガー攻撃の矛先は日本のマスメディアにも向けられていて、朝日新聞などが在日朝鮮人が犯人であっても、本名ではなく、通名(日本人名)で報道することも度々やり玉に挙げられます。

 

これは、朝日新聞などの通名報道という虚偽報道に怒るのは当然で、警察の公式発表を正確に報道しないことも『在日認定問題』を大きくしている原因だと、私は思います。

 

『在日認定』問題など、単なる噂話の一つであって大多数の日本人にとってはどうでもよい。自分が全く困らないし、そもそも関心が無い。指摘をされれば、「確かにそれは変ですね」くらいの反応はするが、それでは、問題解決につながらない。
「人の口に戸は立てられぬ」 という通りで、在日朝鮮人が通名のまま『在日認定』の無道を批難したところで、大多数の日本人の在日朝鮮人への嫌悪を増幅させるだけだと、私は思います。結局、在日朝鮮人が自分で解決する以外に方法は無いのでは。

 

 仮に『在日認定』問題を、在日朝鮮人が解決したいのならば、

 

■第一に、在日朝鮮人が通名をやめて、常に毅然とした態度を示す。

■第二に、民団・総連なども通名禁止を規約として徹底する。

■第三に、在日朝鮮人がマスメディアの通名報道に断固抗議し、在日朝鮮人が犯人でも正確に報道することを要求する

 

などの方策をとることが必要だと、私は思います。

 

作家の高橋源一郎氏が、朝日新聞に面白い投稿をしていました。抜粋引用し、敷衍してみます。

 

2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の飛行機が突入した。イスラム原理主義グループによる同時多発テロだ。ベルリン滞在中のアメリカ人作家スーザン・ソンタグは、その2日後、このことについて意見を書き、テロから6日後に発売された雑誌に掲載された。ソンタグはこう書いている……まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない。テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮(さつりく)を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。欺瞞(ぎまん)や妄言はなにも解決しない。現実を隠蔽(いんぺい)する物言いは、成熟した民主国家の名を汚すものだ、と。

 

『(論壇時評)〈個人的な意見〉 「愛国」の「作法」について』
(高橋源一郎 朝日新聞 2014年9月25日より)

 

以下、在日朝鮮人向けの敷衍です。

 

「卑怯者」との批難は、『在日認定』する一部のブロガーよりも、『通名』を使いながら『在日認定』を騒ぎ立てる在日朝鮮人にふさわしい

差別撤廃を主張しながら毅然とした言動は一切できず、『通名』を都合良く使い分け、欺瞞や妄言を繰り返すからである。現実を隠蔽する物言いは、成熟した民主国家においては「卑怯」と指弾されるのだ、と。