島田川流域の古墳に関してあやしいと思っている場所は畑山(はたやま)の古城跡です。

ここは毛利輝元の母方祖父、内藤興盛の所領の一つで山城があったと言い伝えられています。

山城として利用されていたとなると頂上は切ったり掘ったりされたことでしょう。

地図を見ても古墳めいた雰囲気は全くありません。
ただ、ここの山頂には「茶臼臺と船岩があり、その他揺ぎ岩とて大きなる畳岩ありて押せば動揺す」と古い資料にあるのです。
船状とか畳状はあやしいです。
どんな岩なのか見てみたいものです。
問題は頂上への登り口が分からないことです。
とりあえず畑(はた)に行ってみます。

上島田運動公園を左手に県道346号線を登ります。
が、途中で道が狭くなります。
これが県道。
いわゆる険道です。
走り始めてすぐに後悔しました。
軽自動車で道幅ギリギリです。
脇見したら車輪が落ちそうです。
トラップのような蓋のない細い溝があります。
時速15キロくらいでゆっくり走りました。
現在の様子からは信じられないことですがこの畑山古城跡は昔は人の往来が結構あった場所だったようです。
古地図を見ると山の中腹に代官所の高札のマークがあります。
行き交う人々に読ませるための藩の掲示板ですね。
こんなところに?
自動車が通る道を作るために山を削ったせいか崖崩れが進み、城跡へ登る道の痕跡もありません。
古地図と現代の地図を比較する限りこの辺りがかつての道っぽいのですが藪になっていて先が見えません。
私が子供の頃はここまで藪化していなかったのですが。
藪蚊がとても多くて頭から虫除けネットを被っていてもまとわりつかれて大変でした。
狭い道を抜けると県道346号線の光井方向に降りる方向は拡幅されていて、半世紀前とすっかり様変わりしていました。
ええ?
ここにこんな鳥居あったっけ?
私の記憶が間違っていなければ、ここに鳥居なんてなかったはずです。
見たことがないです。
灯籠は萬延二酉年(1861年)
鳥居も祠も新しくはないですね。
ちょうど庭先にいらした地元のお姉さんにお聞きしたところ、この三宝大荒神は元々山の中にあったそうです。
しかしみなさん山に入り辛くなってきたので二十年くらい前?に山から降ろしてお大師様と並べてここに据えられたということです。
その時に鳥居の貫や額の補修もされたということで、それで一部、石が新しいようです。
こういうことですね。
なるほど。
私の記憶が間違っていた訳ではなかったようで安堵しました。
ん?ちょっと待って。
何か引っかかります。
山の中の神社?
幼い頃、この山を横切って近道をした事があったのですが、その時に不思議な社がありました。
道もない森の中にポツンと木造の社があり、子供心になぜこんな場所に?と思い記憶に残っていたんです。
大人になって地図を見ても山の中に神社や寺のマークがないのであれは夢だったのかと思っていたんですが、本当にあったんですね。
その社には鳥居が無かったので神社か寺か分からなかったんですが、そうか、その頃は貫が壊れて足元に鳥居が寝かせてあったのでしょう。
失礼いたしました。
三宝大荒神さん、はじめましてではなく五十年ぶりの再会でした。

お姉さんに古地図にあるもう一か所の社についても伺いましたが、こちらは山の中に完全に埋もれてしまっているようです。
地元の方でも、もう入るのは難しいのではということでした。
そちらは薬師(やくし)さんと呼ばれる社だったそうです。

畑山は山頂で常時暮らせるタイプの城ではなかったようで、武士の住まいがあったことを示す「土井」という地名や「的場」などという地名が谷あいに残っています。
ここで代々暮らしている方たちは平家の末裔と言い伝えられていて、過去帳や位牌はとても古い時代のものがあるそうです。
お聞きした苗字もレアで、全国30人レベルでした。
隣接する八海の光井氏は大内氏系の海賊衆だったそうですが、畑村は平氏系なんですね。
いつからいつまでが内藤氏の傘下だったんでしょう?
色々想像すると面白いです。

この小さな盆地は古くから開けていて、畑村の北端には奈良時代の和銅年間に開かれたという橿原神社もあります。
三百年近く前は上島田ではここが最も家が密集している場所でした。
西に進み島田川に抜ければ玖珂や岩国、下松方向どちらにも行けます。
北に進めば立野で橿原神社の分かれ道からは岩田方向に行けます。
南は光井を抜けて海に出られます。
さらに時代を遡って畑山や八海山の山城が機能していた頃、四百年以上前の戦国の頃には、もっとたくさんの家があったのかもしれません。
城下町ならぬ城下村?
想像してみると面白いです。
鬼清水、鬼ヶ峠という小字名もあって、なんとなく屈強な武士が住んでいた時代を感じさせてくれます。
今はすべて、兵どもが夢の跡です。