周南市の中心である徳山は大昔は江邑、海辺の村と呼ばれていて、その後は田辺庄と言われていました。
田辺と言えば紀州熊野三山への入り口です。
徳山周辺に熊野神社の荘園があったのかもしれません。
元々徳山は「都濃(つの)郡」です。
都濃の地名の由来は、ここが紀州の紀氏の祖である紀角宿禰(きのつぬのすくね)の領地だったからです。
古くは都濃(つの)ではなく都怒(つぬ)と書いていました。
万葉仮名での角(つぬ)です。
都濃郡最北の須万村は、紀ノ村(きのむら)とかつては呼ばれており、須々万には下角(しもつの)という土地に紀角宿禰を葬ったという言い伝えもあり、都濃郡と紀州とのゆかりを感じさせる逸話がいくつも残っています。
徳山の大内系の旧家、野村家の家譜によると、多々良義春の五世裔である孫三郎頼重が紀伊国野上庄を領したので野上氏を名乗るようになり、その子孫が大内弘茂に従って応永六年(1399年)ごろ周防国に下って田辺庄三十貫の地を領し、田辺庄を野上庄に改めたとされています。
多々良一族が紀州に行って戻って来たということでしょうか。
野上氏は自分たちが崇敬するようになった紀州の三社権現
・新宮速玉神社(イザナギ)
・那智神社(イザナミ)
・熊野神社(スサノオ)
この三宮を東川の河口を挟んで勧請しました。
やがて毛利氏の時代になり野上村が徳山と名を変え、続く明治になると神社の統廃合があり、新宮速玉神社は遠石八幡宮に合祀されこの地を離れることになりました。
いつもは遠石八幡宮に在住しておられる、この速玉神社の神様は、一年に一度だけ氏子の担いだお神輿の行列を伴い元の社殿の場所に戻ります。
つまり現在、出光興産の敷地になっている場所にです。
速玉神社はかつては旧暦五月十三日にお祭りをしていたそうですが、今は新暦五月十五日に近い日曜日がお祭りです。
今年は五月十日でした。
地元のお兄さんたちにお聞きしてみたところ、氏子でなくてもお神輿の列に付き添って新宮速玉神社にお参り出来るそうなので、行って来ました。
その後、大人の神輿、そして子どもたちの神輿がわっしょいわっしょいと町を練り歩きます。
出光興産の所長さんがご挨拶をされましたが、ご神木がこれからも長生きしてくれるように、樹木の健康を管理したりサポート材の設置でクスノキを支えているとのお話でした。
地域社会への貢献の一環でもあるんだろうなと感心しました。
この中庭で神輿を下ろしていったん休憩です。
出光興産さんからお茶の接待がありました。
この日は暑いくらいの陽気でしたので心遣いに助けられました。
ちなみに出光興産徳山事業所の敷地の地名が新宮町で、隣接するのが速玉町、どちらも新宮速玉神社から採られた地名です。
社殿跡地での祝詞の後に神輿が出立です。
お祭りはこれで終わりかなと最後尾を歩いていたら、神輿が途中で止まりました。
社殿前でお神輿がぐるっと一周、元気よく舞ってみせていました。
ここでは日本ゼオンの所長さんがご挨拶をされ、神主さんが祝詞を捧げてみんなでお祈りです。
そののち速玉公園まで戻り、出光興産さんや日本ゼオンさんから子どもたちへのお菓子のお土産が渡され、お祭りが終わりました。
次にお参り出来るのはまた一年後です。
氏子のお兄さんにお話を伺いましたが、自分たちが子どもだった頃にも楽しんだこのお祭りを次世代に繋げていきたいと仰っておられました。
準備も中々大変でしょうね。
本当にお疲れ様でした。
六百年以上続く神社への参拝が今後も続くことを祈ります。







